第十五話 阿程の提言

 十七の晶矢しょうしだから言える。世間を知らないから言える。一人前でないから言える。そんな否定が一斉に紛糾した。その一番奥で棕若しゅじゃくが満足そうにまなじりすがめたのを文輝ぶんき晶矢しょうしだけが知っている。この答えを誰よりも求めていたのは棕若だ。一杯食わされた、と晶矢が苦虫を噛み潰した顔で文輝に視線を送ってくる。文輝もまた棕若と晶矢に上手く利用されたのだということを知って苦笑していたが、文輝には文輝の役割がある。

 それを今、果たさなければならない。

 文輝は復号した桃色の文を開封することなく両手でそっと包み込んで部屋の中央を真っ直ぐに進む。華軍かぐんの印が押されたその表紙を開きもせずに文輝は棕若の机の上にそれを置いた。

 棕若は意味ありげに文輝を見上げ、問う。


「中を確かめなくてもいいのかな?」

「構いません」

「君にとって不利なことが書いてあるかもしれない」

「構いません。私は上官も同僚も信じています」


 あなたがそうしたように。最後の一言は口にしなかったが棕若には伝わったのだろう。「大した自信だ。実に羨ましい」言って文輝には元の位置に戻るように指図して棕若が桃色の文を持ち上げる。

 そして。

 彼は相変わらず慣れた手つきで文を開いた。

 表紙と同じ色の本文を開いた棕若は渋い顔で左右の文官たちに中を確かめさせるべく手渡す。隣に座った副尚書令ふくしょうしょれいが一番最初にそれを読んでやはり苦く笑った。


「これでは何の証左しょうさにもなりませぬな」

「流石は右官府うかんふ通信士つうしんしだね。中々にしぶとい」


 そんな会話が上座で交わされるうちに末席にまで桃色の文が回覧される。

 文輝の隣で晶矢が不思議そうに尋ねてくるが文輝にはそれに応える術がない。


首夏しゅか、あの文には何が書いてあるんだ」

「知らん」


 正直にその旨を告げると晶矢の表情が曇る。

 小声だが訝った音が文輝を言外に責めた。


「『知らん』だと? 通信士殿か校尉こうい殿かと打ち合わせがあったのだろう?」

「その二人の間ではあるかもしれねぇけど、俺は知らん」

「何も知らないでおまえは孫翁そんおうに文を渡したのか」

「そうだ」


 晶矢がそうして工部こうぶの役所を出てきて、この場の裁量を委ねられるのと同じように、文輝も謀略を持っているのだろうと問われたがないものはない。文輝は先に晶矢が皮肉った通り「何の文を運んでいるかも知らないてん」だ。それ以上も以下もない。

 文輝に緻密な駆け引きをしろというのは到底無理な話だ。

 何の根拠もなかったが文を棕若の手に委ねたとはっきりと肯定すれば、晶矢は呆れ返って言葉にもならないようだった。


「『そうだ』って、おまえ、何かあったらどうするつもりだったんだ」

「孫翁に御史台ぎょしだいへ出頭しろとか言うやつにとやかく言われたくねぇ」

「この、大馬鹿ものが」


 言って棕若たちからは見えない角度で背中をしたたか殴られる。女とはいえ、武官見習いの殴打はそれなりに痛みを伴う。文輝は小さく呻き声を上げて堪えたが殴られた場所は鈍痛と僅かな熱を持っている。

 何をするのかと文句を言おうと晶矢を見やると随分とすっきりした顔をしていて、苦言が喉もとで霧散した。


暮春ぼしゅん?」

「実際、おまえは大したやつだ」


 華軍の文の中身は未だにわからない。それでも、華軍の文を復号することで文輝と晶矢は自らを取り戻した。回廊を巡る途中で文に復号していたら、と考えてぞっとする。文輝に出来るのは開封だけで、もしも華軍に連絡を取りたいのなら左尚書さしょうしょの通信士に返答を依頼しなければならない。

 棕若の謀略がどういう段取りになっていたかは判然としないが、それでも、文輝の選択が場の流れを変えたのは確かめるまでもない。だから、文輝は漠然と思うのだ。華軍は文輝と晶矢が左官からの反撃を受けることまで見越して鳥を送ってきたのではないか、だとか、文輝の性格で言えばすぐに鳥を復号したりしないことも計算ずくなのではないだろうか、とか。

 そんなことを考えているうちに桃色の文は文輝たちの手元へまで回ってくる。

 棕若の「それは君たちにお返ししよう」という言をきっかけに、文輝と晶矢は華軍の文を見た。そこに書かれていたのはたった一行「お前を信じろ」の文字だけが綴られていた。


左尚書令さしょうしょれい殿、これは」


 その簡潔で明瞭な文に晶矢は弾かれたように顔を上げて棕若と相対する。


「僕たちは何の細工もしていないよ」


 右官うかんというのは僕たちには到底理解出来ないことをするね。でも、どうしてかな。ほんの少し羨ましいと思ってしまう。

 言って彼は心底愛しそうに武官見習いの二人を映した。


阿程あてい殿、君は僕に内府ないふへ出頭してほしいと言ったね」

はい。確かにそのようにお願い申し上げました」

「ときが許すのであれば君たちが内府へ上ることを各々の役所へ伝えなさい。僕の通信士を呼ぼう」


 香薛こうせつ、と棕若が従臣じゅうしんの名を呼んだ。


「通信士を僕の部屋へ」

「ただいま呼んで参ります」


 言って従臣が踵を翻すのを見届け、棕若が立ち上がる。文輝と晶矢は慌てて叩頭こうとうした。左右の違いはあれど、棕若は文輝たちよりずっと位が高い。緊急事態だからこそ相対していられたのであって、話が一段落してなおも頭を上げているという非礼までは許されないだろうということを思い出したからだ。

 棕若はそんな二人のばつの悪さなど知らぬ態度で好々爺こうこうやの笑みを浮かべる。


「阿程殿の言には一理あることは皆も理解しただろう。僕にはやましいことは何もない。それでもただすべきことがあるというのなら内府へ出頭することは決してやぶさかではない。僕はそう思うのだけれど皆はどうかな?」


 棕若の問いに室内は俄かにざわめいたが、結局は尚書令が決めたことに従う、という結論になった。異口同音に賛成の声が上がる。

 それを見届けて、棕若は上座を離れ、叩頭した二人の傍らに寄り沿って肩を叩いた。


「では参ろうか」


 緑の扉を押して棕若が回廊へ降り立つ。文輝たちも立ち上がり室内の左官たちに一礼して棕若の背を追った。回廊を歩く足音を聞き届ける空気が幾ばくか柔らかいものになっていたことを二人は知らない。

 回廊を戻り、左尚書令室で報告書をしたため、それに棕若が一筆を添え通信士が鳥を飛ばす段になる。左尚書の通信士は文輝たちが見たところで真似が出来ることではない、と惜しげもなく暗号の過程を見せてくれた。二つの土鈴を両手に持ち、足踏みと鈴の音を背景に謡曲ようきょくを歌い、華麗に舞うその姿は質実剛健を旨とする右官府では決して見られないもので二人はしばし見入る。文官府は典雅だ、と漏らせば内府の方がもっと典雅だという棕若の返答があり、文輝は素直に感心した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る