第十四話 武官諸志

 部屋の一番奥に棕若しゅじゃく。その顔には冷酷な余裕が浮かんでいる。その両脇に左尚書さしょうしょの高官たちが並ぶ。彼らの顔も一様に勝利を確信していた。文輝ぶんきの斜め前に晶矢しょうし。彼女の表情を覗き見ることは出来ないが、それでも背中がきゅうしていることを何よりも雄弁に語る。

 晶矢の隣まで一歩半。その距離を詰めた。

 肩にとまる尾羽に猩々緋しょうじょうひの紋を刻んだ小鳥をそっと左手の人差指に移す。

 そして。


「『百官ひゃっかんに説く。力は武にあらず。は官に非ず。すなわち武官とはに非ず。武官とは至誠しせいむねとし、利を分かち、弱きに沿い、強きをいましめるものなり。常に自らを一振りの刃として努めよ。その刃はおのれに非ず。もしあやまちて刃を振るわば我ら進みてその首をねん。百官に説く。武官は私に非ず。何時なんどきも忘るることなかれ』」


 伝頼鳥てんらいちょうを復号する為の手順はそれぞれの府庁やくしょで独自の取り決めがある。

 警邏隊けいらたいの役所や官吏に届いた伝頼鳥を復号する為にはこの長い口上を一言一句違わずに既定の時間内に読み上げる以外の方法はない。間を省略することは不可能だ。唯一の救いは、どれだけ多くの伝頼鳥が届いていても復号の手順は一度で全ての鳥に効力がある、という取り決めがされていることだけだろう。

 文輝の口上が終わると桃色の小鳥は糸のように解け、そして一通の同じ色の文の形を成した。表紙おもてがみの押印が差出人を雄弁に物語る。これは戦務長せんむちょうからの文ではない。渦中のとう華軍かぐんその人からの私的な文だ。

 その文を開くより早く、文輝の隣で晶矢が口を開いた。


「『武官諸志ぶかんしょし』か」

「俺にもお前にも必要だっただろ?」

「よりにもよってこの場面で『武官諸志』とは実に恐れ入る」


 呆れたような感心したような、或いはそのどちらでもないような口調で晶矢が微苦笑を浮かべた。淡々とした物言いに彼女が本質を取り戻したのが見て取れる。

 「武官諸志」というのは所謂「五書ごしょ」の一つで武官の心構えを説いた書物だ。文官の心構えを説いた「文官諸志ぶんかんしょし」と対を成す書で、五書の範疇はんちゅうには通常どちらか片方だけが含まれ、「諸志」という名で認識される。両方を含む場合には「六書ろくしょ」になるが、その呼称が使われることは殆どない。

 文輝が読み上げたのは「武官諸志」の前文にあたり、武官見習いは軍学舎ぐんがくしゃ初科しょか一年目の課程で必ず暗唱させられる。業務で用いるからとはいえ、文輝ですらそらんじられるのだから、晶矢も当然知っているだろう。

 その当たり前の知識と前提が先ほどまで彼女の中から抜け落ちていた。

 武官は特別な存在ではない。文武官そのどちらもが国を支える柱であり、自らの感情の好悪でどちらかを否定するようなことがあってはならない。

 晶矢は多分今、やっとそれを思い出した。

 武官がなすべきことは文官を責めることでも捕縛することでもない。武官が護るべき「国」の一部には文官までが含まれている。

 華軍の飛ばした伝頼鳥を開封する手順が晶矢の中に響く。文輝もまた初志を思い出した。

 だから、もう華軍の文の中身に怯えることはない。

 文輝の隣で晶矢のはしばみ色が強く輝いた。

 晶矢はその眼光の鋭さのままに棕若に応える。


わたくしが何を求めているのか、と左尚書令殿は問われました。その問いに謹んでお答え申し上げたく存じます」


 勢いが戻った晶矢の態度に、棕若は少しつまらなそうな顔をしたがそれでも彼女の返答を拒みはしなかった。


「聞こう」


 文輝の両側が棕若の回答にどよめく。否定の言葉が幾つも飛び交ったが、老翁ろうおうは動じることなく静かにそれを制した。


「僕が『聞こう』と言っているのが聞こえないのかな」


 それともこの場に僕以上の権限を持つ方がおられるというのなら僕は礼を失したことを詫びよう。どうかな、おられるのなら早く名乗っていただきたいものだね。

 棕若はたったそれだけの言葉で彼の両側に控える高官たちから事実上、発言権を剥奪し、そして再び晶矢と相対した。


阿程あてい殿、君の返答を是非聞かせてもらおう」

「では」


 と前置いて晶矢ははっきりと言葉を紡ぎ始める。


「私たちが護るべきはお互いの立場や府庁の面子ではありますまい。『国』を護るのが我々の本懐であれば、このような駆け引きでいたずらに時を失するべきではないと存じます」

「なるほど、一理ある。それで? 君は僕に何を求めるのかな?」


 晶矢は改めて問われたその「本質」に対する答えを見つけていた。九品でもてい将軍の愛娘でも後継でもなく、阿程でもなく、ただの晶矢として彼女は淀みなく希望を告げる。


「つきましては、左尚書令殿にお願い申し上げます。私どもと共に内府ないふ御史台ぎょしだいへ出頭していただきとう存じます」


 その希望が言外に含むのは互いに痛い腹を探り合うのをやめにしようというこの世の中で最も難しい類の提案だ。内府は右官府にも左官府にも属さない中立の機関だ。その中でも御史台と言えば監査の役目を負っている。右官府にも左官府にも反逆者がいるのならお互いにそれを探り合っていても何も始まらない。その任に相応しい役所に報告するのが本筋だ。

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