第三十八話 無限の仮定

「もっと早く、俺が来れば何かが変わりましたか」

「さてな。俺はただ言われた通りの役を演じただけだ」


 憂いに満ちた顔で華軍かぐん瞑目めいもくする。その瞼の裏に何が映っていて、彼は何の為にここにいるのか。それを知る権利を与えられたのは文輝ぶんき一人なのだと直感した。華軍の視界には晶矢しょうし志峰しほうも映っていない。

 ならば文輝も敢えて二人のことを忘れるように努めなければ同じ場には立てないだろう。

 警邏隊けいらたい戦務班せんむはんの役所で振る舞うように、文輝は華軍と対峙した。


戦務長せんむちょうは何をなさるおつもりなのですか」

「それが知りたいのなら俺を殺してこれを奪い取るといい」


 華軍が懐から椿色の小鳥を取り出す。それは華軍が暗号化した伝頼鳥てんらいちょうであることは疑う必要すらない。ちらと小鳥を見せた華軍は再び懐深くに仕舞う。殺して奪えというのは比喩ではないだろう。それだけの覚悟があるのに、文輝の目に華軍は疲弊しきっているようにしか見えなかった。何に疲れているのかわからなかったが、この半日の出来ごとを言っているのではないと直感する。多分、彼はもうずっと前から何かに疲れ始めていたのかもしれない。

 もし気付けていたら、と少しだけ思ってそれは文輝の自惚れだと知る。

 複雑な胸中が表情に出ていたのか、華軍は困ったように笑った。その表情の崩し方があまりにも文輝の知っている「いつもの華軍」で文輝はますます胸の奥が痛むのを感じる。


小戴しょうたい、そんな顔をするな。別にお前の所為じゃない」


 強いて言うなら運がなかった。ただそれだけのことだ。

 華軍が言っているのが生まれなのか、配属なのかはわからない。わからないことばかりで、文輝は自身の存在の小ささを思い知らされる。美しく整った岐崔ぎさい。それが全てだと思っていた。地方は荒れている、と聞いてもどうせ岐崔より少しばかり煩雑なだけだと思っていた。その認識の甘さが文輝の胸中で後悔を生む。

 もしもう少し早く生まれていたら。

 もしもっと見識が広かったら。

 もしもっと力があったら。

 もしもう少し一般的な生まれだったら。

 叶わない仮定が幾つも胸に湧き上がる。

 それでも。

 文輝は知っている。

 仮定がどれか一つでも現実のものだったら、文輝は華軍と巡り会わなかった。

 だから悔いても仕方がない。わかっている。わかっているが、感情は論理では整わない。胸に広がる鈍痛を堪えるように唇を噛み締めた。「小戴」と文輝の名を呼ぶ穏やかな声が聞こえる。文輝は凪いだ水面のような華軍の呼びかけにはっとして視線を上げた。華軍が階段を二つ降り、文輝の方へ向けて歩いてくる。声色と相反して彼の双眸には敵意が宿っていた。その眼光の鋭さに文輝は生唾を呑みこむ。人からこれほどまでに強い悪意を向けられたのは生まれて初めてのことで、どうすればいいのかがわからない。反射的に一歩後ずさる。長靴が石畳の上を擦って耳障りな音を立てた。


「小戴、お前も気付いているだろう? 俺は――俺たちはもう限界だ。お前が俺を殺さないのなら、俺たちはお前を殺してでも先へ進む」


 そう決めた。もう決めてしまった。先がどこなのかはわからない。それでも、華軍の中ではもう覆すことの出来ない結論が出ている。その結論に至る道を遮るのであれば文輝すら排除する、と華軍の敵意が示す。

 文輝は生まれながらにして武官の道を歩いている。それは戦闘という暴力を携える道だと知っていた。誰かを守る為に何かを傷つける道だとも知っている。今、文輝が躊躇うことは許されていない。それも知っているが文輝の感情が否定する。


「華軍殿、今ならまだ――」


 過ちを取り戻せる。留まるなら今しかない。

 文輝の感情がその言葉を口にしようとさせた。

 その刹那、文輝の頬に鋭い痛みが走る。熱い液体が頬を伝い、顎から滴り落ちる。朱に染まる白帝廟の石畳を確認しなくてもわかる。目の前にいたはずの華軍の姿を探さなくてもわかる。これは血だ。文輝は今、三十歩の距離を一瞬で詰められた。晶矢が文輝の名を短く呼ぶのが遠くに聞こえる。呼吸すら聞こえそうな距離で、剣を構えた華軍が最後の言葉を発した。


「小戴、覚悟はいいな」


 戦慄が背筋を駆け上がる。

 敵意から殺意に変わった気配が次の瞬間、再び文輝から離れる。文輝は無意識的に直刀ちょくとうの柄に手をかけた。次の斬撃を本能的に察して直刀を鞘から半分抜く。耳障りな金属音が響くと同時に右手に衝撃が走る。華軍の二撃だ。何とか堪え、剣を押し返す。華軍の姿が文輝の間合いの外に移る。文輝の背中の方で晶矢と志峰がそれぞれの得物を構える気配がして、反射的に文輝は叫んでいた。


暮春ぼしゅん、手を出すな!」


 勝機があったのではない。

 晶矢の手を借りなければ劣勢だということはわかっている。文輝が知っているのは模擬戦だけで、その両手は綺麗なままだ。地方官を経てときに最前線で武官として戦ってきた華軍とは経験が違う。

 わかっている。

 自らの感傷の為にいたずらにときを過ごすべきではない。

 椿色の小鳥に全てが綴られているのなら、一刻も早くそれを手に入れ、岐崔の防衛を根本的に立て直さなければならない。そうでなければ、文輝の生家もまた災いに巻き込まれる。

 わかっていたが、文輝を殺してでも先へ進むと言った華軍の声音に含まれていた切なさが耳に残る。それを些事と黙殺出来るほど文輝の精神は成熟していなかった。


「暮春、俺に戦わせてほしい」


 間合いの外で剣を構える華軍を注視したまま文輝は晶矢に語り掛けた。

 晶矢がはっきりと激怒する。その怒りもまた当然のものだが、文輝の心は動かなかった。


「馬鹿かおまえは! 初科しょかの成績に自惚れているのだろうが、そんな場合では――」

「暮春、頼む」


 てい晶矢しょうし、一生の頼みだ。俺に戦わせてほしい。

 出来るだけ冷静にそう告げる。名で呼ばれた晶矢が返す言葉に詰まって、それでもなお憤っている気配が伝わる。それでも、文輝は知っている。晶矢が文輝の心からの頼みを断るような薄情ものではないということを。


「死なないと誓えるか」

「暮春?」

「必ず生きると誓え! でなければわたしも戦う、いいな!」

「誓う。誓おう。必ず俺は生きる」


 怒っているのに今にも泣きそうな声だと思った。その声に背中を押されて文輝は華軍の間合いへ一歩、踏み入れる。空気を震わすほどの殺意を浴びて臆していた気持ちは今も変わらない。それでも、誓いを立てたからか先ほどよりも体に力が満ちている。下手をすれば文輝は切り捨てられて終わる。よくても相討ちが精々だ。

 それでも。


「華軍殿、刃がなければ語れないのならお相手する」

「精々死なぬように努めるのだな」


 華軍の敵意と対峙すると宣言をした。悪口が聞こえて彼の姿がまた消える。

 華軍の得手は高い瞬発力を駆使した短期戦だ。まずはこの斬撃の速度に目を慣らさなければ話にならない。防戦一方の文輝の後ろには晶矢と志峰がいる。志峰は大夫のもとへ鳥を飛ばした。半刻もすれば御史台ぎょしだいから増援が駆けつけるだろう。

 それまでに、文輝は自らの納得する答えを華軍から引き出せるだろうか。

 不安は消えない。それでも、文輝は華軍と対峙すると決めた。

 右腕で受ける重みと必死に戦いながら、夕闇の中文輝の戦いが始まった。

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