第三十七話 三十五万

 だから。


「お手間を取らせました。参りましょう、志峰しほう殿」


 人を信じるということがこれほど難しいことだとは今まで思ってもみなかった。

 今までの文輝ぶんきは人を信じているという体裁を取り繕い、奇跡的に上手く生きてきただけだ。本当に人を信じたことなどないのだろう。

 人とは利己的なものだ。かつて華軍かぐんが文輝にそう言った。わかっているつもりだった。人は自分の為だけにしか生きられない。どんな慈善も慈愛も結局は自らの満足のうえに成り立っている。

 それを今、痛いほど思い知った。

 それでも、文輝は今も華軍を信じたいと思っている。

 この思いが揺らがないのなら、それでいい。

 神の天啓ではない。国主こくしゅ勅命ちょくめいでもない。上官の指示でもなければ、同輩の提案でもない。この世界に一人しかいない文輝自身が決めたことだ。


首夏しゅか、わたしはおまえの判断を信じているが、万が一の場合には口も手も挟むぞ。覚悟しておけ」


 白壁に沿って再び駆け出した隣で晶矢しょうしが言う。彼女の右手がそっと腰にいた短剣に添えられる。文輝は知っている。その短剣がてい家に代々伝わる宝剣で実戦には向いていないことも、彼女がその鞘を抜いたことがないことも。初科しょかの頃に彼女が一度だけ、その宝剣を振りかざし、目に見えない権力という力を行使しようとしたことを今も悔いていることも文輝だけは知っている。

 晶矢が殺傷能力のないその短剣で武力行使をしようとしている、と聞けば彼女の命そのものを懸けて戦うと言っているのと大差ない。代々、程家当主の得物は長弓ちょうきゅうだと決まっている。彼女には近接戦闘は出来ない。

 知っている。文輝は色んなことを知っているのを少しずつ思い出してきた。

 その思いが、不意に文輝の胸の内を温かくさせる。

 別離の覚悟は出来ていない。覚悟もなく戦うのは愚策だと知っている。

 だから文輝は苦笑いを浮かべた。


「善処するよ」

「その顔だ」

「うん?」

「おまえはそういう顔の方が似合っている。小難しいことを考えるのは孫翁にでも任せておけ。十七のわたしたちに背負えるものなどないんだ」

「っていうのを背負ってるお前には言われたくない」

「抜かせ」


 軽口を交わせるぐらいには文輝にも晶矢にも冷静さが戻っていた。

 華軍の答えを聞けばもう一度心は揺らぐだろう。

 それでも。


とう華軍はもう少し早くあなたに出会うべきでしたな」

「そうかもしれません。でも、出会ったのなら今からでも間に合う、とも思いませんか?」


 長い長い白壁の切れ目がやっと姿を現す。門柱が見え、三人は足を速めた。

 志峰の返答を聞く間もなく、西門から廟の中へと飛び込む。整然と敷き詰められた石畳に赤が反射している。二十四の像が見守る回廊の内側、本殿の階段に人影が一つ。近寄るまでもない。右服うふくを着たその背中には確かに見覚えがある。

 その名を呼ぶより先に声が聞こえた。


小戴しょうたい、遅かったな」


 もう来ないのかと思っていた。声が続き、文輝は鼓動が早まるのを感じる。耳まで熱くなりながら、文輝は名を叫ぶ。


「華軍殿!」


 その続きは既に言葉にならない。どうして、だとかどういうつもりで、だとか頭の中で言葉が溢れて何一つ音にはならなかった。憤りと安堵と疑問と不安とでごちゃまぜになった文輝の後ろで志峰が紫の鳥を放つ。その動きも鳥の軌道も見えないだろうに、華軍の背中がゆっくりと振り返り「俺を捕えても無駄だ。御史台にそう伝えておくといい」と平坦に言った。無実だとは言わない。彼の身にかかった嫌疑を晴らすこともしない。せめて弁明をするのならば聞きたかった。


「華軍殿!」


 もう一度叫ぶ。憤りで語調がきつくなる。それでも、華軍は眉一つ動かさず白帝像の足もとで悠然と立っていた。


「小戴、俺はお前に言ったな。『お前を信じろ』と」


 左尚書さしょうしょで窮地に立っていた文輝と晶矢を救ったのは華軍の鳥だ。あのとき、華軍が別の文言を鳥に記していれば結果はどうなっていたのかわからない。

 文輝を救った鳥の主を疑いたくはない。

 国を守る右官の見習いとしてこれほどまでに甘えた言動はないだろう。

 それでも、文輝は華軍を信じたかった。

 そのことを伝えたくて、ようやく言葉は音になる。


「信じているからここに来ました。俺の知っているあなたは何の理由もなく国を売るような方ではない」

「では理由があれば国を売る男だと思われているのだな」

「華軍殿! 俺は言葉遊びをしに来たのではありません」


 あなたが持っている真実を聞きに来たのだ、とは言えず口を噤む。

 華軍が背に負った白帝像を振り返る。三十歩以上の距離があるのに、文輝の目には彼が何かに傷つき憂いているのがわかった。傷つけられたのはこちらの方だ、という文句が湧く。それでも、文輝は口を噤んだまま華軍が話を始めるのを待った。

 視線すら交わらない。華軍が白帝像から目を離すまでの時間が永遠にも感じられる。

 文輝の背中の向こうで晶矢が焦れ、一歩前に踏み出す。彼女の長靴と石畳が擦れ、耳障りな音を立てたのが最後のきっかけとなり、華軍の眼差しが文輝を射た。


「小戴、この中城ちゅうじょうには一体どれだけの官吏がいるのか、お前は知っているか」

「位階の上下にこだわらなければ約三十五万」

「その中でここに来たのはお前たち三人だけだ」


 三十五万。見習いから現役を引退して指南役として務めているものまで含めるとそのぐらいになる、と文輝たちは初科しょかで学ぶ。退庁を禁じる命が出ているから、三十五万の官吏は今、この中城に留まっていることになるが、何が起きているのかを正確に把握しているものは限られていた。

 華軍が言わんとしていることが上手く理解出来ない。

 思考してから相手に問え、と進慶に言われたのがまた思い出される。

 こんなときにまで悠長にそれを守る必要があるのか、と自問しながら文輝は思考を続ける。華軍は何を待っていたのだろう。その答えは既に知っている気がした。

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