第三十六話 憐憫の拒絶

 華軍かぐんに会って文輝ぶんきは何を言うつもりでいたのだろう。

 話を聞けばただの行き違いで済むと思っていた。説得すれば応じてくれると思っていた。

 しかし、もうそんな次元はとうに終わっていた。

 白壁の切れ目に門柱が見える。そこをくぐるのが急に怖くなって、気付けば足が止まっていた。先頭の文輝が止まったことで、晶矢しょうし、続けて志峰しほうも足を止めざるを得なくなる。晶矢が訝しげに文輝の名を呼んだ。


首夏しゅか


 急いでいるのに何をしている、と言外にある。今更気持ちが揺らいだとは口が裂けても言えるはずがない。文輝の感傷と理想論に付き合って皆ここまで来た。それが解決に一番近いと信じたから皆乗った。その信頼を裏切ることは出来ない、と思う。それでも、どうしても怖い。その気持ちは何度拭っても消えてくれなかった。


「志峰殿、一つだけお聞きしてもよろしいですか」


 堪えきれず問う。志峰の肩に紫の小鳥が舞い降りるが彼はそれを開封することなく、文輝の問いと対峙してくれた。


「何でしょう」

「志峰殿はなにゆえ通信士つうしんしになられたのですか」

とう華軍と似たような理由でしょう」


 罪科つみとが読替よみかえはより重い罪を犯したとき以外で変わることがない。一生を罪科に寄り添って生きていくことを国に強要されている。三親等以内の親族にまで類が及ぶこの制度を作った過去の立法官たちは罪の重さゆえに犯罪への抑止力になると考えていたのだろうが、官吏の腐敗が進んでいる今となっては不必要に人々の暮らしを圧迫するだけになっている。

 「まじない」の才を持つものは読替による底辺の生活から抜け出す為に士官するが、全てのものが救い上げられるわけではない。そして士官が叶っても当然、不条理な差別から逃げられるわけではなかった。


「国もとではやはり肩身が狭かったのですか」


 ぽつり、漏らす。華軍は文輝に愚痴めいたことは一つも言わなかったが、彼は彼なりの苦しみを背負っていたのだろう。そのことに考えが至らず、一方的に親しくしていると思っていた。九品きゅうほんの傲慢と言われれば否定は出来ない。

 夕暮れの赤に照らされた志峰が困った顔で肩を竦める。そこに華軍への同情と嫌悪と憐憫が相反することなく同居しているのを見て、文輝は彼もまた答えを探しかねているのだということを知った。


「おや。一つ、ではなかったのですか。しかしまぁ、答えましょうか。国府に参ってよりもそうでしたな」

「俺は通信士とは人より秀でた存在だと思っていました」

「九品三公さんこうもそのようなものでしょう」


 あなたも生まれながらにして人より秀で、ただびととは隔された扱いを受けてこられたはずです。志峰が言う。文輝はその言葉に今までの十七年間しかない人生を振り返った。華軍や志峰ほど秀でてはいないが、思い当たることがある。


「人の中にありながらなお孤独である、という感覚が志峰殿にもおありですか」

「血族の中にありながらなお孤独である、という点では違いましょう」

「華軍殿もそのようにお思いだったのでしょうか」

「通信士には横のつながりすらありませんからな。上官の信を受けられなんだら心が死にましょう」


 文輝は九品だが、三男で二人の兄がいたからそれなりに上手く世を渡る術を身に着けることが出来た。晶矢の方が風当たりが強い。そう思うことで塞ぎ込む気持ちを抑えられたこともある。文輝は世間という人の中にありながらもなお孤独だったが、決して孤立無援だったわけではない。

 志峰や華軍にはその救いの場がなかった。それでも、彼らは上官という寄る辺を得て生きている。華軍の上官はりゅう校尉こういで、今回の動乱に深く関わっているという嫌疑がかかっていた。華軍が迷わなかったとは思わない。

 でなければ、彼が文輝の下へ折よく伝頼鳥てんらいちょうを飛ばすことはしなかったはずだ。華軍は迷っている。自分自身に課せられた命題の証明の過程で心が揺れている。


「志峰殿、それでもあなたは華軍殿を憐れむなと仰るのですね?」


 志峰もまた彼に課された命題と戦っている。その過程が今だ。


「陶華軍を放免ほうめんすればそれは通信士全体に関わります。というのは建前ですな。私は私の地位が惜しいのです。矜持もあります。その職務を放棄した陶華軍に憤ってもおります。ですから、律を破ったものが許されることが許せません」

「志峰殿が逆のお立場ならどうされましたか」

「それは考えるだけ詮のないことでございましょうな」


 私は今ここにおります。それだけが真理ではございませんか?

 胸中の迷いも、周囲への不信もある。それでも、志峰は岐崔ぎさいの安寧を選んだ。それを乱すものは捕え、処罰する。華軍に同情しないのではない。彼の心中は痛いほどよくわかっているだろう。そのうえで彼は「通信士」の立場を重んじた。

 だから。


「小戴殿、お心は定まりましたか? もしまだでも私たちは行かねばなりません」

「首夏、ここにも陶華軍はいないかもしれない。それでもわたしは中へ向かう。おまえがその手で陶華軍を捕えるのと孫翁そんおうにその役目を託すのと、どちらがおまえを納得させる結論なのか、それは知らん。知らんがおまえは決めたのではなかったのか? 同僚を――陶華軍を信じているのはおまえ一人だ。今更揺らぐならさっさと御史台ぎょしだいへ帰ってしまえ」


 わかっている。華軍には何らかの落ち度がある。その程度がどれぐらいかも、動機も全部華軍に会わなければわからない。

 それに、と思う。

 大仙たいぜんの前では強がって見せたが城下にある戴の屋敷に火が放たれることに対する懸念は残っている。母はきっとうまく采配するだろう。次兄もいる。人さえ残れば屋敷など何度でも復興出来る。信じていないのではない。それでも、失われるものは少ない方がいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る