第八章 夕暮れの白帝廟
第三十四話 通信士の矜持
終業の刻限を告げる鐘が鳴り、平時であれば日勤の官吏たちが帰途についている筈の中城に長靴が石畳を駆ける音が響く。かつかつと規則的に、けれど忙しなく鳴り渡る音に退庁を禁じられた官吏たちが一様に振り向く。
駆けながら文輝はその
取り敢えずは会話をするうえで必要な情報だと思い、名を訊く。通信士は淡々と「
文輝は志峰に何と返すべきか戸惑い、結局は沈黙が返答として受け取られた。その礼を失した返答に志峰は顔色一つ変えることなく、まるで遠くの出来ごとでも知ったような態度で「お気になさいますな」と言う。文輝が取り繕いの言葉を探していると志峰はそれさえも遮るように静かに語りだす。
「正直なところ、
「何の『機』でしょうか」
「
息一つ乱さず、駆ける足を緩めることもなく、三人は右官府の北側にある白帝廟を目指す。現在の配置では右尚書の受付の正面に廟の入り口があるはずだった。
文輝が知っている通信士は少ない。
だから、志峰の言うことが上手く咀嚼出来ない。
晶矢の方もその件については大差なかったのだろう。彼女にしては珍しく、怪訝な面持ちで志峰に問うた。
「志峰殿、それとわたしの指名がもたらした『機』というのが上手く結びつかないのだが」
「
いっときの楽しみの旅以外で、と言外に含んでいて文輝たちは顔を見合わせてから否定する。そんな経験はない。あるとしたら中科を終えて
それを正直に伝えると志峰が微苦笑する。
「ならばお二人には私からお願い申し上げます」
「何を」
「決して陶華軍を憐れみ、情をかけようとなさらないでいただきたい」
特に小戴殿、あなたに重ねてお願いします。指名で言われて文輝は驚きに目を瞠った。
半年だ。半年しか文輝は華軍のことを知らない。それでも、次兄にも似た雰囲気を持つ華軍のことを文輝は親しく思っていた。読替など
会って半日。言葉を交わした時間だけで言えば四半刻にすら満たない。
たったそれだけの志峰に文輝の何がわかるのだと反発を覚える。
その気持ちが顔に出ていたのだろう。志峰はいっそう苦々しく笑いながら言う。
「小戴殿、多分、あなたより私の方が陶華軍の心情を理解しています」
苦笑を形作る唇から断定の言葉が聞こえる。文輝はその言葉に思わず耳を疑ったが、三歩駆けるうちにその意味するところへ辿り着いた。
「志峰殿が地方出身で、読替で、今は国官の通信士だから、ですか?」
「あなたにわかりやすい言葉で表すのならそうなのでしょう」
「納得出来ません。志峰殿は華軍殿にお会いになったことはないはずです。会ったこともない相手の心情が理解出来る、などというのはあり得ない、と俺は思います」
生まれや育ち、
それをそのまま伝えると志峰が静かに反論する。
「それはあなたが九品だから言えるのです。
国を
三男に生まれた文輝は九品の家を継ぐ権利など殆どないに等しいが、それでも九品であることには何ら変わりない。初科の頃からそれはずっと知っている。九品だと言うだけで敬遠される。その不条理をいつか覆したいと思って文輝は他人から見れば無意味にも等しい努力を続けてきた。家を継ぐ晶矢は不条理を黙殺することを選んだ。
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