第八章 夕暮れの白帝廟

第三十四話 通信士の矜持

 終業の刻限を告げる鐘が鳴り、平時であれば日勤の官吏たちが帰途についている筈の中城に長靴が石畳を駆ける音が響く。かつかつと規則的に、けれど忙しなく鳴り渡る音に退庁を禁じられた官吏たちが一様に振り向く。文輝ぶんき晶矢しょうし右服うふくの二人の姿を見ると、彼らは当然のように道を譲ってくれたので目礼して三人は白帝廟はくていびょうまで全力で駆けた。中城ちゅうじょうは広いが、ただ駆けただけで息が乱れるほどではない。

 内府ないふ御史台ぎょしだいを飛び出した後、文輝たちは正門で自らの得物を返却してもらった。大夫たいふ付の通信士つうしんしも同じように短剣を受け取っていたから御史台以前の所属は右官府うかんふだったのだろう。晶矢がそこまで見抜いて指名したとは思えなかったし、もしそうだったとしても通信士は現在の右官府の配置を知らない。ただ、時間との勝負になっている今、全力疾走で中城を巡る体力のない通信士では足手まといだったから、結果的に晶矢の判断は正しかったと言える。

 駆けながら文輝はその赤環せきかんの通信士へ幾つかの問いを投げかけた。

 取り敢えずは会話をするうえで必要な情報だと思い、名を訊く。通信士は淡々と「ばい志峰しほうと申します」と答えた。その名の持つ意味を通信士が説明するまでもない。大夫付の通信士もまた罪科つみとが読替よみかえを背負った天才の一人だということを察する。

 文輝は志峰に何と返すべきか戸惑い、結局は沈黙が返答として受け取られた。その礼を失した返答に志峰は顔色一つ変えることなく、まるで遠くの出来ごとでも知ったような態度で「お気になさいますな」と言う。文輝が取り繕いの言葉を探していると志峰はそれさえも遮るように静かに語りだす。


「正直なところ、阿程あてい殿に指名していただいたとき、私は『機を得た』と思いましたよ」

「何の『機』でしょうか」

小戴しょうたい殿はご存じではないかもしれないが、読替の通信士など西白国さいはくこくでは珍しくも何ともないのです」


 息一つ乱さず、駆ける足を緩めることもなく、三人は右官府の北側にある白帝廟を目指す。現在の配置では右尚書の受付の正面に廟の入り口があるはずだった。

 文輝が知っている通信士は少ない。たい家の老通信士の他は前年までの中科ちゅうかで配属された役所の担当者ぐらいのものだ。初科しょかの歴学と法学の講義で読替については学習したが、この春、とう華軍かぐんと出会うまではそれも知識の中の存在に過ぎなかった。

 だから、志峰の言うことが上手く咀嚼出来ない。

 晶矢の方もその件については大差なかったのだろう。彼女にしては珍しく、怪訝な面持ちで志峰に問うた。


「志峰殿、それとわたしの指名がもたらした『機』というのが上手く結びつかないのだが」

九品きゅうほんであるお二人にはそうなのでしょう。お二人は岐崔の外へ出たことは?」


 いっときの楽しみの旅以外で、と言外に含んでいて文輝たちは顔を見合わせてから否定する。そんな経験はない。あるとしたら中科を終えて修科しゅうかに進み、地方府へ仮着任するのが最初になる、と二人ともが認識していた。

 それを正直に伝えると志峰が微苦笑する。


「ならばお二人には私からお願い申し上げます」

「何を」

「決して陶華軍を憐れみ、情をかけようとなさらないでいただきたい」


 特に小戴殿、あなたに重ねてお願いします。指名で言われて文輝は驚きに目を瞠った。

 半年だ。半年しか文輝は華軍のことを知らない。それでも、次兄にも似た雰囲気を持つ華軍のことを文輝は親しく思っていた。読替など律令りつりょうの定めた尺度の一つで、個人主義的な思想を持っている戴家においては特別な意味を持っていない。だから文輝は素直に先達として華軍を敬い、通信士として信頼し、そして年の離れた友のように親しんできた。

 会って半日。言葉を交わした時間だけで言えば四半刻にすら満たない。

 たったそれだけの志峰に文輝の何がわかるのだと反発を覚える。

 その気持ちが顔に出ていたのだろう。志峰はいっそう苦々しく笑いながら言う。


「小戴殿、多分、あなたより私の方が陶華軍の心情を理解しています」


 苦笑を形作る唇から断定の言葉が聞こえる。文輝はその言葉に思わず耳を疑ったが、三歩駆けるうちにその意味するところへ辿り着いた。


「志峰殿が地方出身で、読替で、今は国官の通信士だから、ですか?」

「あなたにわかりやすい言葉で表すのならそうなのでしょう」

「納得出来ません。志峰殿は華軍殿にお会いになったことはないはずです。会ったこともない相手の心情が理解出来る、などというのはあり得ない、と俺は思います」


 生まれや育ち、位階いかいや左右のかんの別。箇条書きで事実を列挙すれば華軍と志峰は文輝よりもずっと近い存在同士だ。それはわかっている。それでも、志峰が華軍に会ったことは一度もないだろう。その相手の心情がわかる、などというのは幾らなんでも度を過ぎた発言だ、と文輝は判じた。

 それをそのまま伝えると志峰が静かに反論する。


「それはあなたが九品だから言えるのです。無官ぶかんと一般的な貴族、そして九品三公さんこうの間には決して越えられないほど大きな隔たりがあることをあなたはまだご存じではない」


 国を白帝はくていから預かる国主こくしゅ。その血族である三公。そして貴族の中でも特別な地位を保証された九品。

 三男に生まれた文輝は九品の家を継ぐ権利など殆どないに等しいが、それでも九品であることには何ら変わりない。初科の頃からそれはずっと知っている。九品だと言うだけで敬遠される。その不条理をいつか覆したいと思って文輝は他人から見れば無意味にも等しい努力を続けてきた。家を継ぐ晶矢は不条理を黙殺することを選んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る