第三十話 静かなる憤怒

 そのことを理解した棕若しゅじゃくが口を開く。老翁の背中は義憤に満ちていた。


りゅう子賢しけんの調査はどこまで進んでいるのだい?」


 静かに激した口調で棕若が問う。大仙たいぜんは顔色一つ変えずに淡々と答えた。


郭安州かくあんしゅう中科ちゅうかを受けたということがどうにかわかったが、それ以上の調査は望めない」

「なるほど、戸籍班こせきはんの書庫の炎上は妨害行為だというわけだ」


 戸籍簿は三重に保管されている。その中で出生と死亡の届けの記録が詳細に残るのは戸部こぶ戸籍班の台帳だけだ。残りの二つにおいては軽微な情報だとされ、同期されない。

 その、戸籍班の台帳は十三ある書庫で六十年間保存される。

 御史台ぎょしだい戦務長せんむちょうの身上を疑い、調査を開始した段階で既に隠蔽工作が始まっていた。台帳が消失すれば戦務長の生まれは闇の中に消える。それは他の密通者にしても同じことだろう。

 大仙が無表情でそれを肯定する。


近衛部このえぶはそのように把握した」

「出自の隠蔽、にしては仰々しすぎるね。各部の密通者の調査を遅らせるつもりかな?」

左尚書令さしょうしょれい殿、その件に関しては我々も多少は調べておりまする」

「そこで右尚書うしょうしょからの調書が出てくる、のだろう?」

「左様。大仙、調書をこれへ」


 内府ないふの官吏というのは揃いも揃って感情を顕わにしない。大夫たいふもまた鉄のように変化のない顔で大仙に指図する。文輝の指摘した右尚書からの調書が半刻遅れでようやく登場した。

 大夫は調書を大仙から受け取ると、慣れた手つきで広げ、ざっと目を通す。


「左尚書令殿、右官府うかんふの内通者候補の名が挙がって参りましたぞ。ただ、どの官吏もはっきりとした根拠がありませぬ」


 通信士つうしんしを中心とした名前が幾つも読み上げられるが文輝の知っている官吏は殆どいない。晶矢しょうしの方は幾つか心当たりがあるのだろう。時折厳しい表情で大夫を睨み付けていた。

 およそ二十に至る名が読み上げられ、締め括りに入る。その最後の名だけは決して聞き違えることなどあり得なかった。


兵部ひょうぶ警邏隊けいらたい戦務班付通信士、とう華軍かぐん。このものだけは詳細な罪状が挙がっておりまする」

「馬鹿な! 華軍殿が一体何をしたと言うのです」


 文輝が陶華軍と出会ったのは中科ちゅうか三年目の春、警邏隊戦務班の役所でだった。彼は常によき先輩であり、先達だった。文輝とは歳も近く、割合親しい。「まじない」の才も秀でており、華軍の作る鳥は美術品のような美しさを持っている。その華軍が文輝を――岐崔ぎさいを裏切っているなど到底信じられることではない。

 一体何の罪状が論っているのかと思わず声にして叫んでしまったあとで、文輝はこの場が御史台であることを思い出し、ばつの悪い思いをした。それでも出した声は二度と取り戻せない。後悔もあったが、文輝は自らの主張を貫くことを選んだ。


小戴しょうたい殿、まずは右尚書の調書の中身を聞こう。否定はその後でも十分に間に合う」

「しかし、孫翁そんおう! 俺は知っています。華軍殿は国を売るような真似をする方ではありません」

「小戴殿、僕は『聞こう』と言っているのだけれど?」

「いいえ、右尚書の調書は誤りです。華軍殿に罪を擦り付けたい誰かが偽りの調書を作成したとしか考えられません」

「黙るんだ、小戴殿」

「孫翁!」


 棕若もまた憤っているのは理解している。大夫が読み上げた調書に偽りがなければ、密通者は偽造された緑環りょくかんの数よりも余程多い。しかも名が挙がったのは殆どが通信士だ。役所の左右で言えば、右尚書の責任の方が重いと言わざるを得ない。

 それでも、文輝は文輝の運命を切り開く手を貸してくれた先達を切り捨てることが出来なかった。上官も同僚も同じように信じている。左尚書で口にしたその言葉は今も文輝の中で生きていた。戦務長が何の意図を持って動乱に加担したのかはわからない。華軍が本当に清廉潔白なのかもわからない。

 ただ、一つだけわかることがある。

 それは文輝が二人を信じたいと思っている、ということだ。

 棕若にはそれが見えている。だから、彼の意図に従わない文輝を排除しようとするには至っていない。文輝も頭に血が上っているがそれに気付かないほどは愚昧ではなかった。

 だから、だろう。


「孫翁、誰が何と言おうと俺は俺の直感を信じます。華軍殿は決して意味なく国を裏切るような方ではありません。万に一つ華軍殿に罪科つみとががあるのだとして、そこには何らかの意味がある、と俺は思うのです」

「僕は君の気持ちまでも否定したいのではないよ。ただ、否定するにはその前提となる事由が必要だ。大夫の話を最後まで聞こう。君が真実陶華軍を信じられるのだと言うのなら、それぐらいの覚悟が必要だとは思わないかな?」


 幼子に説いて聞かせるように穏やかに棕若が言う。その正論中の正論に論破され、文輝は反論の言葉を失った。血が上っていた頭が少し冷える。否定は許されている。それだけが文輝の希望だった。


「大変失礼をいたしました。大夫、続きをお願いいたします」


 不本意ながらそう謝罪すれば場の空気はまた緊張感を帯びる。

 大夫は「よろしいか」と前置いて華軍の罪状を読み上げ始めた。

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