第二十六話 口防戦

 文輝ぶんきの発言に晶矢しょうしは物言いたげに睨み付けてきたが、止めるつもりはないらしい。前に座った棕若しゅじゃくの背中には喜色が僅かに浮かぶ。思うようにやってみろ、と言われているような気がした。

 二人の黙認に背中を押されて、文輝は言葉を続ける。


大仙たいぜん殿、今朝は貴官が国主こくしゅ様の間諜だと存じ上げず、失礼をいたしました」

「君はさっきから何を言ってる。れは君とは今が初対面だが」


 大仙が文輝の言葉を正面から否定する。否定したいのならばするだけすればいい。文輝は弁舌に長けているわけではないから、自らの言葉で大仙や大夫たいふを論破しようとは思っていない。適材適所。この中で最も口の上手い棕若が状況を把握し、反論をしてくれるだけの材料を提供出来ればいい。

 棕若ならば右官うかん罪科つみとがに対しても公正に接してくれると信じていた。


「秘密裏に中科生ちゅうかせいを審査しているのでしょう。ご安心ください。審査があることは決して後輩たちには漏らしません」

「だから何の話だと言っている。君もわからんやつだな」

「大仙殿、貴官とこうして顔を合わすのも何かの縁。そう邪険になさらないでください。考えてみれば簡単な話ではないですか。鳥の飛ばない岐崔ぎさいで、あなた方が最も安全なてんであることは間違いありますまい」


 近衛部このえぶの官吏は国主に忠誠を誓う。一生を国主の為だけに生きて、中城ちゅうじょうの為だけに尽くす。中城の中が動乱の現場であろうと、武に長けた間諜が行き来するのには何の支障もない。安全かつ確実に文を運ぶだろう。

 今、御史台ぎょしだいが文を欲しているとすればそれは右官の裁定さいていに関する情報だ。右尚書は東の外れにあり、中五条ちゅうごじょう薬科倉やっかそうの付近を経由しなければ辿り着くことは出来ない。

 大夫が大仙に命じたのは恐らく右尚書への伝であり、薬科倉の件は立ち寄った程度だと考えるのが妥当だ。ということは大仙は今、右尚書からの文を携えている。その文が大夫の手に渡るまでが勝負だ。

 棕若の応戦が始まるのを今か今かと待ち侘びる。情報はまだ足りていないのか。気持ちだけが焦った。


「君はどうあっても己れを間諜に仕立て上げたいと見えるな」


 大仙が溜め息を漏らす。子守に疲れた、と顔中で表している彼の手前に見えている棕若の背中はまだ動かない。まだときではないということだ。ならば文輝はもう少し大仙の言葉を引き出さなければならない。


「事実の指摘にすぎません」

「そうだな、仮に己れが君の言う間諜なのだとして、肯定すれば君は満足するのか?」

「肯定していただけるのであればお聞きしたいことがあります」

「……何だ。聞くだけは聞こう」


 多分、大仙が間諜であるという前提のうえで問えるのはこれが最初で最後だ。

 何を問うべきかの取捨選択をした。

 そして一つの大きな仮定が文輝の中で輝きだす。問うべきはこの一つだ。確信がある。

 だから。


「国主様は今朝の段階でこの動乱をご存じだったのですね」


 国主の間諜である大仙が態々文輝の登庁時刻を見計らって審査に出向いた、という可能性も残っている。それでも、文輝は自らにそれだけの価値がないことを知っている。九品きゅうほんの三男。成績は上の中。特別に試されなければならないほど優秀な人材ではないだろう。てい家を継ぐ晶矢ですら審査を受けたのは服務中だったと聞いた。彼女以上の待遇で文輝が試される筈はない。

 だから。


「貴官が今朝、陽黎門ようれいもんを通られたのは私の審査の為だけではありますまい。寧ろ逆だ。貴官は国主様からの密命を受け、城下へ戻る途中で偶然私と出会われた。つまり『ついでに』私を試された、そうですね?」


 そう考えると納得のいくことが幾つかある。

 中城で事件が起きているのに内府ないふだけはいつも通りの静謐さを保っている。それは予め内府がこの動乱を予期していたからではないか。想定外の出来ごとなら御史台はもっと騒然としてもいいはずだ。

 大夫が落ち着き払っているのも、彼に有利な情報を持っているから、だとすれば納得がいく。そしてそのうちの一つは明らかに大仙の存在だ。

 そこまではわかる。なのにそこまでしかわからない。今朝、進慶しんけいに言われた忠告が耳に蘇る。真実まで残り僅かだが手の届かない自分がもどかしくて、悔しかった。

 国主は岐崔の動乱を知っている。知っていて右官府にも左官府にも通達しなかった。それがどういう意味なのか。理解を文輝の頭が拒んでいる。

 真実に辿り着けない文輝を嘲笑うかのように大仙が皮肉に笑った。


「君は随分と自らを卑下しているな。九品の子息なのだろう? 矜持はないのか」

「自らを守る為の矜持など何の価値もありません」

「立派な心がけだな。だが、それを聞いて己れがほだされるとでも思ったのか? 君が言っているのはただの空想に過ぎない」


 そしてその空想を延々と聞いてやる時間はもう残っていない、と大仙が言外に締め括る。大夫がすっと瞼を伏せた。一歩届かなかった。無力を悔いる文輝の耳にその力強い声が聞こえる。一陣の風が吹いた気がした。


「大夫、僕は君に言わなかったかな? 『君は君の矜持にかけて君の任務を遂行するように』と」


 強く厳しい声が正殿せいでんの中に響く。文輝は目をみはった。棕若がちらと振り向いてまなじりを細める。文輝の無謀な挑戦は届いていた。そのことだけを告げると棕若は相対するものへ向き直る。棕若は左官府の官吏だが九品の家長だ。中城を守るのは武官だけではない。棕若もまた岐崔を守る為に戦う意思を持っている。

 そのことを彼は文輝の前で自ら示した。

 内府が左右を蔑ろにするのであれば、抗う。それが棕若の矜持だ。左官だからとか右官だからだとかそんなことはこの際関わりがない。

 遺憾の意を呈した棕若の肩へ頃合いを見計らったかのように若草色の小鳥が舞い降りる。それをそっと開封して棕若の戦いが始まった。

 棕若の正面に座る大夫はそれでもまだ顔色を変えない。


「左尚書令殿、何のお話かわかりかねまする」

「近衛部の衛士えじまで呼んで盛大な自己保身をしているから気が付かないのではないかな? 大仙、と言ったね。君がどうしてここに呼ばれたか僕が当ててみせよう」


 その言葉に反応したのは大仙一人ではなかった。進慶の顔色が曇る。文輝の位置からは棕若の表情が読めないが、多分、進慶の目には見えているのだろう。

 中城に二つある城門の守衛は持ち回りだ。文輝の通る陽黎門だけではなく、棕若が登庁する宮南門きゅうなんもんに立つことも勿論ある。進慶の三十余年にわたる近衛士このえじとしての人生の中で、彼は棕若の持つ様々な表情を知っていた。今の棕若の顔が何を意味するのかも知っている。だから彼にはわかっているのだ。

 この勝負の軍配は老翁に上がっていると。


「左尚書令殿まで空想がお好きとは」


 大仙が棕若の余裕を一刀両断しようとする。切り捨てようとした刃は棕若にまで届かず、赤子の手を払うように容易くかわされた。

 棕若が怒気を孕んだ声で一喝する。


「戯言はもういい。君が持ち運んでいる重要な情報。右尚書からの調書ともう一つ。そうだね、中城で二つ目の事件が起きた。違うかな?」


 場所は今度は左官府だね。戸部こぶ戸籍班こせきはんの書庫が現場だ。

 そこまで断定して反論を求める。大夫は落ち着いて問いに問いを返した。


「何の根拠があって申さるるのでございまするか」

「僕の優秀な通信士がたった今、その報告をくれたよ。ほう大夫、君も見たらどうだい? それとも別の根拠がほしいのなら一から十まで述べることもやぶさかではないよ」


 さぁ、大夫。選ぶといい。君はどの道を行くのかな。

 棕若の堂々たる宣戦布告が正殿に鳴り渡った。

 秋の日は落ちるのが早い。正殿の外では空の端に色が滲み始めている。御史台の庶務官しょむかんが室内に明かりを灯し始めた。そのことが時間の経過を告げ、文輝の気持ちが急く。それでも、大夫の表情だけが変わらないのだけが薄気味悪かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る