第十二話 猩々緋の小鳥

 郭安州かくあんしゅう、というのは岐崔ぎさいの西側の山々を越えた向こうにある土地の名前だ。州都しゅうとに定められた僅かな緑地の他は果てのない砂原が続いていると聞く。遊牧と交易で得られる収入に頼っており、経済も治安も非常に不安定である為、郭安州の官に任じられると岐崔の国官たちは一様に落胆する。それほど郭安州は貧しい。自然、郭安州から岐崔へと上れるものは限られた。

 首府しゅふで生まれ、首府で育ち、首府に配属された文輝ぶんきにはその辺りの実感が乏しいが、それでも一応は知っている。郭安州から岐崔に上ってくるだけの財貨を持つものはほんの一握りしかいない。十日で三十六。それがどれだけ異常な数値であるかは考えるまでもない。

 郭安州の州牧しゅうぼくが何を思い、或いは何を隠そうとして「無事」の返答を続けているのかは文輝にはわからない。文輝だけがわからないのではない。岐崔にありながら地方のことを正確に知る術などないのだ。伝頼鳥てんらいちょうは確かに飛ぶ。相手がそれを復号したことまでは通信士つうしんしを使えば知れる。だが、その向こうで意図して伏せられた実情を知ることは出来ない。だのに岐崔は安全だと誰もが信じて疑わなかった。

 そして、今、その見せかけだけの安寧に守られた岐崔には変異が起きている。

 文輝は生唾を呑みこんだ。拱手したままで留めた両手に汗がにじむのを感じる。

 唐突に示された事態に左官さかんたちが戸惑うのも無理はない。それでも、緑環りょくかん――文官の不始末なのであれば左官府さかんふが責を負うのが筋だ。そしてそれは任官にんかんを行った左尚書さしょうしょの責任だということを同時に意味している。

 棕若しゅじゃくが重い息を吐いた。


「一つだけ、尋ねてもよいだろうか」

「その結果、左尚書令さしょうしょれい殿が我々の要望を満たしてくださる、と仰るのなら何なりと」

「手厳しい。君がてい将軍の懐刀ふところがたなというのは本当らしいね。全て君たちの望むようにとは約せないけれど、善処はしよう。そん家の家格かかくに誓ってもいい」


 程将軍、というのは晶矢しょうしの母だ。地方府の師団長しだんちょうを歴任した後、銀師ぎんし――中城ちゅうじょうを守る師団しだん弓兵きゅうへい隊を率いている。その事実を以って、右官府うかんふは晶矢に甘い、と世間は揶揄やゆするが程将軍を知るものであればそのような発想は絶対に出て来ないことを文輝は知っている。程将軍――晶矢の母は文輝の父よりも余程厳正な性分で親の七光りだなどと言わせないが為に晶矢を教育してきた。

 棕若は九品きゅうほん家長かちょうだ。だから彼は程将軍を知っている。そのうえで晶矢を評した。多分、棕若に残された意味のない抵抗だったのだろう。室内の左官たちは得心なり侮蔑なり感心なりしたが晶矢はそれでも決して俯いたりしなかった。

 それを見届け、棕若はふと表情を緩める。文輝もよく知る孫翁そんおうの顔だったが、これ以上ないほど倦んでいた。


阿程あてい殿、『君』は僕に何を求めているのだい?」


 その問いを聞いた瞬間、文輝の世界から全ての音が消えた。

 晶矢が文輝の隣で瞠目するのを感じる。棕若の問いは簡潔で、先ほどまでの晶矢なら容易く答えられただろう。それでも、抑揚が告げる問いの真意は晶矢が建前で語ることを許しはしなかった。文輝にすらその意味が分かるのだから、晶矢が意図を汲みかねている筈がない。

 九品の嫡子ちゃくしである晶矢。程将軍の娘である晶矢。工部こうぶ案内所の案内係である晶矢。中科生ちゅうかせいとしての晶矢。そして、文輝の朋輩としての晶矢。

 棕若の指した晶矢は多分そのどれでもない。もっと根源的なものを指した。だから、晶矢は返答を上手く紡げない。

 そして、文輝は改めて知る。

 文輝には――或いは晶矢をしても、棕若の国を思う気持ちを否定することは出来ない。彼もまた国官としてこの国を守ろうとしている。緑環を示した三十六名が文官であることは間違いないが、それが真実である保証はどこにもない。かんを偽るのは罪だ。しかもただの罪ではない。重罪だ。程度が酷ければ死罪を言い渡されることすらも覚悟しなければならない。だから生半なまなかな気持ちで環を偽るものはいない。

 それでも、棕若はそれを疑っている。

 文官と武官、西白国さいはくこくを支える二つの柱の一つが腐り落ちてようとしている。その事実を認める前に他に出来ることがないかを必死に探している。その結果、右官府の事件が起きるのを止められなかった。そのことに罪悪を感じているが、それでもなお、彼は彼の朋輩である文官を疑う以外の答えを求めている。

 反対の立場なら晶矢もそうしただろう、とやんわりと言っている。彼女にはその意図が正しく伝わっているから返す言葉を探せないでいた。

 返答に詰まる晶矢と、彼女に向けられた問いの重みにたじろいでいる文輝の耳にその次の言葉が聞こえたとき、文輝は目の前が真っ暗になるのを感じた。


小戴しょうたい殿、どうして僕が君に文を運ばせたのか、君は知っているかな?」


 とう華軍かぐんという名の通信士にはこの三十六名の誰かと密通している、という嫌疑けんぎがあるからだよ。りゅう校尉こういもそのことはご存じだ。疑うのなら、その猩々緋しょうじょうひの紋の小鳥を復号してみるといい。嫌疑は確信に変わるだろう。

 沈痛な面持ちで、それでいて瞳の奥では勝者の自信を輝かせながら棕若が言う。

 この岐崔で猩々緋の紋の伝頼鳥を飛ばせるのは二人しかいない。そのうちの一人は間違いなく、棕若が名指した陶華軍であり、残りの一人は夜勤を終え、今は官舎で深い眠りに就いている筈だ。

 肩にとまった小鳥は鳴きもせずにじっと文輝を見つめている。

 この鳥を復号したことが引き起こす「何か」を予測することが出来なくて、だのにどうしようもない不安ばかりが膨らんで文輝は俯くことすら忘れて、ただ硬直していた。

 回廊の向こうでひるを告げる鐘が鳴る。鼻腔を突く不快な臭いは少しずつ薄れようとしていた。

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