第十一話 異変告げる文

 過去、現在、未来。その全ては自らの足でおもむくものだと知っている。

 朝から続いていた不安がほんの少しだけ薄れていることが不思議だった。

 回廊の果てには緑色に塗られた扉と、その前に控えた棕若しゅじゃく従臣じゅうしん――香薛こうせつの姿だけがある。香薛は近づいてくる文輝ぶんきたちを見るやあからさまに落胆の意を表した。


小戴しょうたい殿はそちらに乗られたのですね」

「すまない、香薛殿。俺に籠の鳥は土台無理な話だった」

「構いませんよ。主も多分、ご承知でしょう」


 あなた方は右官うかんの中の右官と自負されるといい。

 皮肉めいた口調で香薛は二人を代わる代わる見て、そして左官府さかんふでは当たり前の緑の扉をそっと開いた。「そん尚書令しょうしょれい殿に申し上げます。使者がお二人参られました」と奏上そうじょうする声には寸分の揺らぎもない。多分、彼自身も、彼に待機を命じた棕若もこの未来を知っているのだろう。その予感を肯定するように部屋の奥から「通っていただきなさい」という棕若の声が聞こえる。棕若の声もまた落ち着いており、寧ろ他の左官たちが慌てふためく空気の方が異質に思えるほどだった。


阿程あてい殿に小戴殿。君たちが来たからには返答は夕刻では許されないということだね?」


 棕若が上座で両手を組み合わせたままこちらを見ている。その双眸そうぼうに宿った冷徹な輝きに文輝の背を悪寒が駆け上がる。臆したと言ってもいい。好々爺こうこうやとした彼しか知らない文輝には一人の老翁ろうおうがこれほどまでに強い敵意を放っているという事実を即座に飲み下すことが出来なかった。息を呑む。生唾一つ飲み下すのにこれほど苦渋するのは生まれてこの方初めてのことで思考が散じていた。

 文輝の前に立つ頭一つ分も背の低い晶矢にも同じようにその敵意は浴びせられているだろうに彼女が動じる気配はない。落ち着いたまま彼女はゆっくりと拱手した。


「左尚書令殿におかれては現状を把握しておられましょうや?」


 棕若が放つ冷や水のような空気を凛と切り裂いて晶矢しょうしが言う。形ばかり整った敬語が鋭さをより際立たせる。左官たちは齢十七の晶矢のその態度に紛糾した。これだから右官は、だとか、中科生ちゅうかせいの分際で、などという雑言が文輝の耳にも届いた。棕若が黙って右手を上げてそれを制する。

 室内の動揺も晶矢の敵意も何もないような顔で老翁はゆっくりと瞼を伏せた。


「君の持ってきた薄紅の意味を理解しているか、という問いにならはいと答えよう」

「ならば話は早い。今すぐそこに名のあるものを揃えていただきたく存じます」


 棕若の表情が刹那、敵意から困惑へ変貌する。彼の両側に座した左官たちがそれぞれの形で晶矢の要求から目を背けようとしていた。


「今はまだ事実確認を行っている段階だよ。捕縛は出来ない」

「なるほど、左尚書令殿は左官府でも事件が起こってほしい、と仰る」

「そこまでは言っていない。裏付けもなく、官吏を捕縛するのは律令りつりょうに反する、と僕は言っているだけだよ」

「その裏付けとやらを取るのに一体、何刻が必要なのです。わたくしがここに参じた後、速やかにそこに名のある十五名を捕縛しておられれば右官府うかんふで事件が起こることはございませんでした」


 晶矢の声に含まれているのは怒りだ。

 晶矢と棕若の会話に追いつけず、事態の把握に努めるだけで精一杯の文輝にもそれだけはわかる。晶矢は左官府がもたらした何らかの手落ちを責めているのだ。そして、その結果、右官府で爆発が起きている。回廊の西の果て、王陵おうりょうの裾野であるこの場所にも東風は吹き付ける。風が運ぶ異臭とその場にいるであろう右官たちのことを思うと、文輝の胸中も穏やかではない。

 事態が見えていない文輝ですらそうなのだから、文の中身を知る晶矢のそれは比べるまでもない。彼女は静かに激している。

 それらの点と点を文輝は脳裏で何とか結び付けようとした。

 会話は文輝を置き去りにして進む。


「右官府に非はない、と君はいいたいのかな?」

「そうは申しておりません。現に何の文を運んでいるかも知らないてんもおりますゆえ」


 それは間違いなく文輝のことだと気付いた。誰から何の用件で薄紅の文を預かってきたのかも知らない。勿論、晶矢のように交渉の決定権を持っていることもない。それどころか戦務長せんむちょう――りゅう校尉こういが文を書いたのか、もっと上のものが出した文を劉校尉が預かったのかすらわからない。

 晶矢と文輝の間には目に見えるだけでもそれだけの差がある。

 ばつが悪くなり、不意に視線を正面から逸らした。

 棕若が気の毒そうに苦笑する。


「本人の前でそれを肯定するのは実に君らしい決断だね」

「事実の指摘にすぎません。右官府にも手落ちはございます。その一点においてのみ一方的にこちらの要求を通すつもりはございません。我々は最大限の『妥協点』を示したつもりでおりましたが、正しく伝わっておられないのなら今一度申しましょう」


 晶矢がすっと姿勢を正す。西白国さいはくこくでは位階の上下は絶対的な尺度だ。下位のものが上位のものへ礼を失することは決して許されない。彼女がそれを知らない筈がない。それでも正八位下しょうはちいげの晶矢は上二位しょうにい雲上人うんじょうびとである棕若に対し対等の振る舞いをしようとしている。多分、今、彼女を突き動かしているのはてい家の嫡子ちゃくしであり、いずれ国を背負う九品きゅうほん家督かとくを継ぐ者としての責任感だ。


「『中城ちゅうじょうに変異あり。郭安州かくあんしゅうより流れ来たるもの多し。陽黎門ようれいもんにて十五、宮南門きゅうなんもんにて二十一、かんを確かめり。この間十日ばかり。州牧しゅうぼく、無事と言えど、いずれかに難ありと見受けるものなり――』」


 晶矢がそらんじているのが彼女の持ってきた文そのものであると気付くのに時間は必要ではなかった。毅然と胸を張り、一言一句言いよどむことなく、晶矢は朗々と彼女の目の前にない文を読みあげていく。文輝には決してこのような真似は出来ない。感心の溜め息を吐くと同時に文輝は知った。晶矢は自らに課されたものを知ってこの場所にいる。文輝とは何もかもが違うのだ。最初から文輝と晶矢は対等などではなかった。そのことを今更になってようやく理解して気後れから表情が曇る。

 文輝の変化に気付いたのだろう。途中で棕若が困ったように笑い、掌で晶矢の朗読を止めた。

 そして、彼もまた手元の薄紅の文を落ち着いて音読した。

 文の中身も知らない哀れな伝に対する憐憫なのは疑う必要すらない。


「『右官府案内所にて左官府の案内あないを受けるもの三十。併せて薬科倉やっかそうを問うものあれど、うち十五、当地に現れじ。いずれも無官ぶかんにあらず。緑環りょくかんなりて、左尚書の判断を請う。なお、当該者の名は以下の通りである』だろう?」

「不審とわかっておりましたが、十日泳がせておりました。それを手落ちと指摘されれば反論はございません。ですが、裏付けはその間に右官府でも取っております。そうでなければ私がこうして文を運ぶこともございません」


 決して折れることのない晶矢の態度に棕若が今一度溜め息を吐く。

 ここまで来て、岐崔ぎさいで起こっているのがただごとではないと文輝にもわかってきた。

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