第十話 程晶矢

 冬を感じさせる冷たい風が僅かだが異臭を帯びている。左尚書さしょうしょの風上にあるもの――東風が伝わってくる右官府うかんふを守るのは武官としての責務だ。出入り口の外で侍っていた左尚書の官吏かんりが二人の行動に慌てふためいて制しようとしたが、阿程あていである暮春ぼしゅんの決断を覆すことは出来ない。文輝ぶんきは鋼のように固い彼女の意思の前では自らが如何に矮小であるかを知る。九品きゅうほんの一つを継ぐ覚悟がない小戴しょうたいには重く、そして煩雑すぎた。

 左官さかんの困惑を無視して暮春は部屋を出た。文輝もその後に続く。その背を追って薄桃色の小鳥が文輝の肩に舞い降りた。尾羽に混じった猩々緋しょうじょうひの文様を見るまでもなく、警邏隊けいらたい通信士つうしんしからの伝令でんれいであることはわかったが敢えて開封しない。今から暮春と共に向かう場所――左尚書の筆頭官吏たちが顔を突き合わせて返答を協議している部屋のただ中に行けば、伝頼鳥てんらいちょうの中身よりも一歩踏み込んだ内容を知ることが出来る。文輝は合理主義者ではないが二度手間は好んでいない。

 回廊かいろうを巡る長靴ちょうかの音が硬質に響く。暮春の歩幅に合わせようという気配りをしたが、その行為に意味がないことはすぐに分かった。暮春の歩幅は文輝のそれと変わりない。性差を意識する必要がない段階で、文輝は彼女の背負っているものの重みを改めて知った。西白国さいはくこくにおいて女性が就けない職はない。あるとしたら国主こくしゅぐらいのものだ。それでも、いや、それだからこそ彼女は誰よりも高潔に生きている。

 やはり、文輝と暮春は対等ではない。

 文輝の一歩先を同じ速度で迷いなく歩く小さな背中を尊敬の念で見る。高く結い上げられた黒髪が艶やかに揺れた。その肩にもまた伝頼鳥が止まっている。尾羽の文様は朱色で八弁の花が一つ。八弁以上の花の文様はすなわち九品であることを示している。あれは城下のてい家から来たのだろう。たい家からの鳥も来るかもしれない、と未来の可能性を考慮した。そのうえで文輝は警邏隊から来た鳥を開封しないことを今一度決断する。急いでいるのはこちらの方だ。胸中で一人毒づいている間に回廊の終着点が見えた。

 その終点を視界に映した暮春の足がぴたりと止まり、そして小気味のいい音を立てて長靴が回れ右した。

 いきおい、文輝は暮春と差し向うことになる。

 曇りのない榛色はしばみいろが問うた。


首夏しゅか、一つだけ、いいか」

「何だ、暮春」

「これからわたしが言う言葉の中にはお前の信念に反するものもあるだろう。それでも、見届けろ。おまえにはそう出来るだけの強さがあるとわたしは信じている」


 そんな風に念を押さなければならないのなら最初から連れてくるものではない。信じているのなら確かめるな。刹那、反駁はんばくが文輝の中に生まれる。それでも文輝はそれらを全て黙って飲み下した。

 文輝には今、中城ちゅうじょうで何が起こっているのかさっぱりわからない。誰も教えてくれないから知らないだけだという言い訳は軍学舎ぐんがくしゃの学生でも言わないだろう。それぐらい馬鹿げていて、自らの品位を損なう言葉だと誰もが無意識的に学ぶからだ。

 身の上に起こっていることも正確には把握していない。

 それでも、文輝は暮春に同道することを選んだ。今から起こる「何か」と差し向うことを選んだのは他ならない文輝自身だということぐらいはわかっている。

 だから。


「なら早く連れて行けよ、てい晶矢しょうし


 文輝はもう腹を括った。

 晶矢というのは暮春の本当の呼び名だ。西白国では十五で中科ちゅうかを受け、かんを賜るときまで子どもには名などなく、男子は「しょう」、女子は「」を姓に付して称される。文輝が小戴しょうたいと呼ばれるのはその名残だ。名は体を表し、本質を見抜くと古来伝わっており、親と君主にしか真名まなを呼ぶことを許さない。それが西白国に生きる万人の矜持であると同時に慣例である。

 だが、名がなければ個を識別することは出来ず、社会生活上の呼び名が生まれた。それをあざと言い、二つの名は環と共に下賜かしされる。文輝で言えば、字が文輝で、名は耀ようという。首夏というのは愛称で、この名で呼ぶのはこの世に程晶矢一人だけだ。暮春もそれと同様に二つの正式な名前を持っている。文輝は彼女の真名を知らないが、字は知っていた。次兄がそれとなく耳に入れてくれたのだが、それが今生きることになるとは文輝も次兄も思ってもいない。

 名を呼ばれた暮春――改め、晶矢は不意に破顔する。愛称の暮春ではなく、阿程あていでもなく、彼女自身を一人の人間として認めるその名で文輝に呼ばれるのはどこか居心地が悪いのだろう。笑うことで帳尻を合わせようとしているのを感じた。


「なんだ、わたしの名前を憶えていたのか」

「お前と違って人脈で生きてるんでな」

「『人、すなわちそれ財なり。ちょうすれば益し、過すれば損す。信なるは言にあらず、そのしんなり』。お前の為にある言葉だ」


 晶矢から送られたのは五書ごしょの一節だ。経典きょうてんの向こうにいる聖人たちがいにしえの時代に真理と見定めたその一続きの文句を文輝も軍学舎の初科で学んだ。偉人の理想論に準えられるという過大評価に文輝もまた苦笑を浮かべることで応える。

 晶矢の長靴ちょうかがもう一度短い響きを立てて回れ右した。彼女の肩にとまった声のない小鳥と刹那目が合う。

 そして、彼女は寸分の揺らぎもない声で言う。


「では行くぞ、戴文輝」


 ああ、と答えて文輝は瞼を閉じる。なんだ俺の名前を知っていたのか。先刻彼女が口にした言葉と同じ感想が胸中に満ちた。その何とも言えない感情にそっと蓋をして文輝もまた回廊の終着点へと向かう。

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