第三章 中城の異変

第九話 爆発音

 何の前触れもなく、屋外から爆発音が聞こえた。

 ひるの鐘が鳴る前で、そのとき文輝ぶんき暮春ぼしゅんと暇つぶしに碁を始めたところだった。突然の異音に文輝の行動は停止し、一拍遅れで頭が異常事態であることを認識した。それは文輝が滞在した部屋だけに限ることではないのだろう。文輝の思考が戻るのに前後して左尚書さしょうしょの中がざわつき始めた。現状を報告する鳥が飛び交うのはもう少し後だ。今は混乱だけが場を支配している。

 西白国さいはくこくの首府・岐崔ぎさいの国府が置かれた中城ちゅうじょうの内部で爆発が起きたという前例はない。爆発の原因を悪意による事件だけではなく、不慮の事故まで広げても一度もなかった。そんなものがあれば必ず歴学れきがくの教本に記載され、首府防衛を担う武官や武官見習いには周知されるに決まっている。既知の弱点を放置していては守れるものも守れない。軍学舎ぐんがくしゃ初科しょかの歴学で、つらつらと優位性を説いた後「以上の理由から岐崔は安寧を保っている」などと教えるのだから、事実上、岐崔ではそのような事態は起きたことがないと考えるのが順当だ。

 前例のないことが起きている。

 それだけでも文輝は困惑し、思考が停止した。頭の中が真っ白になって碁盤は勿論、その向かいにいるだろう暮春も見えなくなる。

 その後の対処は見習いとはいえ、武官と文官の違いなのだろう。ざわつき、取り乱した様子がありありと伝わる外からの雑音が室内に充満していたが、文輝は状況把握に努めることが出来た。

 文輝と暮春が控えた部屋には灯かり取りの窓しかなく、そこから頭を突き出して外界の様子を探ることこそ出来なかったが、音量と音源の方向から爆発が起きたのは右官府うかんふの中央辺りであることを察した。文輝の知識の中にその近辺の情報はない。

 そこで自らの限界を知り、碁盤の向こうにいる暮春に視線をやった。そうして初めて、文輝は暮春が寸分たりとも動じていないことを知る。暮春の表情は澄み渡った湖面そのもので、さざ波一つ立っていない。岐崔を取り囲む河面でもこれほどに澄んでいることはあるまい。


「暮春?」


 文輝は暮春に何を問おうとしていたのかを束の間忘れる。澄み渡った彼女の榛色の双眸の奥で輝いている何かに気付いたからだ。この輝きに名前があるのだとしたら、多分それは「信念」であるか「確信」であるかのどちらかだ。

 外界の音が聞こえなくなるほど、文輝の鼓動が早鐘を打つ。力強く、小刻みに響く自らの生の証である音が文輝を支配した。それと同時に文輝の無意識が告げる。暮春は「これから何が起こるかをわかって」この場所にいる。


「暮春、お前――」

「首夏、先に聞こう。『おまえはどうする』?」


 そのあまりにも端的な問いに文輝は返答に窮した。榛色はしばみいろは妥協を許さない強い力を伴って、文輝を映している。

 暮春が何を知っていて、その結果どうしようというのかを説明するつもりがないのは彼女の眼差しを浴びればそれだけで十分にわかる。棕若しゅじゃくの言葉に従い、戦務長せんむちょうの駒としての任務を全うする。或いはそれを一方的に無視して、暮春と共に彼女の「確信」に触れる。どちらの選択をするとしても、警邏隊けいらたい戦務班せんむはんからはもうじき伝頼鳥てんらいちょうが飛んでくるだろう。

 暮春の眼差しは鳥が来る前に結論を出すように促している。一刻一秒を争う事態なのだということはそれだけでも十二分に理解出来た。

 それでも、文輝には右官府の中央付近で爆発が起きたことしかまだわからない。

 厳密に言えば、違和を感じる点はそれ一つではないが、点は点でしかなく、暮春のように線や面で把握することが出来ていない。

 たったそれだけの情報で身の振り方を決めるように強要する暮春を見て、文輝は寧ろ安堵した。変わらない。何も変わらない。暮春は昔からこの性格だ。頭の回転が速く、理知的で、毅然としていて、そして常に自分中心だがほんの少しだけは周囲に対する思いやりがある。今もそうだ。多分、暮春は文輝の知らない何らかの「答え」を持っている。だから彼女は決断している。彼女は今から「何か」をしようとしているのだ。それを文輝に一から十まで手解くつもりこそないが、ここで足手まといだと切り捨てることもしない。そしてそれが彼女の中における最上の優しさなのだということを本人は自覚していないから余計に性質が悪い。

 文輝は苦笑交じりで一言だけ問う。

 一言だけなら尋ねても答えてくれるだろうと勝手に決めた。


「暮春、『いいのか』?」


 目的語も主語も副詞も省いた。文輝と暮春の間なら、その漠然とした問いで十分に伝わる。案の定、暮春は少しだけ眦を緩め「おまえなら構わん」と言った。

 その断片的な返答一つに込められた暮春の感情をひとまとめで受け取って、文輝は深く息を吐く。混乱、躊躇、不安、憤慨、そして漠然とした恐怖。暮春から受け取ったそれらがないまぜになったものを無理やりに一旦落ち着かせた。

 暮春の目に見えているのが何か、というのはそれほど問題ではない。

 文輝の知らないところで大きな力が働いているのはもう疑う必要すらないからだ。

 その何かに文輝が関わることを暮春は拒否しなかった。

 十日前に間諜の審査を受けたと言った暮春に対抗意識があったことは否定出来ないが、それ以上に文輝は彼女からの信頼を感じた。だから、文輝の中にある感情は負けたくないでも劣りたくないでもなく、力になりたいという純粋な気持ちだった。

 迷っている暇はない。悩んでも答えなど出ない。

 だから。


「いいぜ、暮春。行こう」


 勝負が始まったばかりの碁盤をそのままにして立ち上がる。好奇心がなかったわけではない。戦務長の駒として振る舞う責務を忘れていたわけでもない。

 それでも、文輝もまた確信していた。暮春の目算の向こうにあるものの重みは文輝が一生を懸けるに値する。

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