第八話 束の間の安息

そこに、思ってもない先客の姿がある。文輝ぶんきは軽く瞠目した。


暮春ぼしゅん?」

「奇遇だな、首夏しゅか。おまえもてんか?」


 暮春――というのは九品きゅうほんの同級への愛称で、彼女が春の終わりに生まれたことに由来しており、それと同様に夏の初めに生まれた文輝を首夏と呼ぶことで彼女は優位性を示そうとしていた――が小部屋の中にいる。先刻、案内所の前を通りがかったときに思い浮かべたのと寸分変わらない剛直な態度で彼女は悠然と寛いでいた。

 そのきもの座り具合は彼女の母を彷彿ほうふつとさせる。暮春の生家であるてい家は九品では二位に当たる。女系の家柄で、家長は代々長女とされた。現在、程家の当主の座にいるのも暮春の母でいずれは暮春がその位を継ぐことになる。ということは岐崔ぎさいにいれば誰でも知っていることだ。工部こうぶの案内所の任も十分にこなしている、と風の噂で聞いた。

 その暮春が何の理由があって左尚書にいるのだ、と考えて彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。


「暮春、お前、今『も』って言わなかったか?」

「言ったが?」

「お前も伝か? 工部の下働きは別にいるだろ?」


 案内所の受付は複数人で受け持っているから別段暮春が役所を出てきたところで業務が滞ることはない。それでも、工部にも受付より下位の中科生ちゅうかせいがいるのもまた事実だ。

 違和感を覚えたままに問えば彼女は苦笑し「おまえと同じ理由だ」と答えた。


「ああ、九品な」


 小戴しょうたいである文輝が圧迫外交の手段に使われたのと同様に、阿程あていである彼女もまた工部の駒の一つになったのだろう。三男であり家督を継ぐ可能性が限りなく低い文輝よりも、暮春の方が余程有力な駒になり得る。そこまでを一拍で理解したが、同時に胸騒ぎが文輝を襲う。


「お前のとこも『何か』あったのか?」


 九品の子息という駒を振るだけの何かが岐崔で起きている。

 終わってしまえば大したことではないのかもしれない。真実を知ったところで文輝には何も出来ないのかもしれない。それでも何も知らないでただ盤上で右往左往しているのはどうにも居心地が悪い。

 暮春は知っているのか、と問えば彼女は鷹揚に笑って答えた。


「さてな。所詮受付の中科生などが知る範疇ではないのだろうよ」

「随分と余裕だな。正八位下しょうはちいげってのはそんなに仕事が楽なのか?」

「首夏、おまえが吠えても何も変わらん。夕刻までには、とおまえも言われたのだろう? 大人しく籠の鳥を演じていた方が何倍も『楽』だ」


 言葉尻を捕えられて正論が返ってくる。楽は探せばどこにでも転がっている。考え方、着眼点、その一つひとつをほんの少しずらすだけでも無数に見つかる。暮春が言っているのは詭弁きべんだと反論しようとして、それも正論で論破されるだけだとわかっていたから口を噤んだ。一位の差が意味もなく存在する筈がない。今の文輝では暮春に勝ることは出来ないだろう。


「首夏、得体の知れない異常事態をこの身で体感出来るのだ。わたしは寧ろ幸運だったと思うが?」

「お前は変わらねぇな」


 常に前だけを見て走っている。どんな状況もどんな境遇も好機に変えるだけの気概きがいがある。後ろを振り返ることは勿論あるが、それでも反省点を洗い出した後は必ず前進する為の力へと変える。

 そんな暮春を見ていると自身の至らなさを嫌というほど思い知らされるから距離を置いた。劣等感と自己不全感にさいなまれたくなかった、というのが一番大きな理由だが、彼女と行動を共にすることで文輝も同じ類の人間だと思われたくなかったというのが次に大きな理由だ。文輝には彼女のような勤勉で誠実な人徳はない。

 この世の全てに真摯に応対する彼女を見ていると息が詰まる。文輝の持つ人徳は人への愛嬌あいきょうだ。付かず離れず人との距離を保ち、自分に都合のいい解釈を即座に選び取る。

 左尚書さしょうしょに来たのも結局は打算だ。ここは左官府さかんふの中でも「まし」な部類だから拒否することすらなかったが、本音を言えば今すぐ帰りたい。上官命令だったから断れない、という体を装って戦務長せんうちょうに貸しを一つ作った。文輝はいつかの将来、彼を使役しえきする側に回るだろう。そのときに手の内にある駒は一つでも多い方がいい。何が起きているのかを知りたいのは状況に振り回されたくないだけで、暮春のように誠実に事態と向き合っているわけではない。

 性格と価値観が根本的に違うのだ。

 それでも、文輝は知っている。文輝と暮春が「対等に」会話することが許されているのは長くても二年先までだ。二人とも半人前の見習いだからこそ、こうして話すことが出来るが一人前の扱いを受け、正式に部隊に配属されれば位階いかいという障壁しょうへきが二人の間を隔てるだろう。

 今朝、国主こくしゅ間諜かんちょうに審査されて芽生えた根拠のない確信を実行する為には今が絶好の機会で、多分これを逃せば二度とは訪れまい。

 左尚書の控室で、左官さかんの誰かがどこか別の場所から二人の会話に耳をそばだてている状況で世間話をするというのも居心地の悪い話だが、文輝は敢えて暮春に話題を振った。


「暮春、今朝、国主こくしゅ様の間諜に会った」

「そうか」


 その淡々とした返答に彼女が既に間諜の審査を受けていることを確信する。

 家格かかく、位階、座学ざがくの成績。その何一つ文輝は暮春に勝ることはない。勝負になるのは近接戦闘の模擬試合ぐらいのもので、それはひとえに文輝が男であるということに起因している。同性ならこの種目ですら敵うことはなかっただろう。

 間諜の審査を受けたのが自分一人ではないと頭のどこかでは理解していたが、こうも淡々と受け流されると対抗意識を燃やすだけ虚しいような気持ちにすらなる。

 嘆息たんそくし、文輝は現実から逃げたくはなかったから問い返した。


「お前はいつ会った?」

「わたしは十日前だ」


 正八位下の暮春と従八位上じゅはちいじょうの文輝の評価の差が十日だと考えるべきだ。一日に何人が審査されるのか、部署に優劣があるのか。何もわからないが、既に文輝と暮春は対等ではない。それでも文輝はその差を受け入れると決めた。一度決めると不思議なもので、焦燥感が薄れる。ただ、眼前にあるものをそれと受け止めるだけの心算が出来た。


「どんな方だった?」

「聞いてどうする」


 面倒だと表情で語る暮春に対して挫けることなく言葉が続く。


「ただの暇つぶしだ。他意はない。誓ってもいい」

「誰に?」

小兄あにうえに」

「なるほど、ならばわたしも心して聞かねばならんな」


 言って暮春の表情が綻ぶ。文輝が暮春の性質を理解しているように彼女は文輝の性質を理解している。誇り高き父、峻烈しゅんれつな長兄、包容力のある母、そして聡明な次兄。戴家の家族は誰も文輝の憧憬しょうけいの対象だが、その中でも次兄への思いが一番強い。十以上も年が離れている文輝を育ててくれたのは事実上、母親と次兄だ。その二人の名に誓う以上、文輝の覚悟は生半なまなかではない。暮春はそれを説明されるまでもなく理解している。

 これほどまでに文輝と暮春の世界は隣り合い、重なり合っているのにお互いにそれを否定してきた。多分、暮春も気付いているだろう。この部屋から出た後に関わり合うことはない。

 だから、彼女もまた文輝の雑談に応じた。奇跡ではない。いっときの気紛れでもない。

 そのことを何重にも噛み締めながら、暮春の出した交換条件――文輝は彼の出会った国主の間諜の話も聞かせる――に応じる為に話を始めた。

 これが岐崔に残された束の間の安寧だということを二人はまだ知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る