第八話 束の間の安息
そこに、思ってもない先客の姿がある。
「
「奇遇だな、
暮春――というのは
その
その暮春が何の理由があって左尚書にいるのだ、と考えて彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。
「暮春、お前、今『も』って言わなかったか?」
「言ったが?」
「お前も伝か? 工部の下働きは別にいるだろ?」
案内所の受付は複数人で受け持っているから別段暮春が役所を出てきたところで業務が滞ることはない。それでも、工部にも受付より下位の
違和感を覚えたままに問えば彼女は苦笑し「おまえと同じ理由だ」と答えた。
「ああ、九品な」
「お前のとこも『何か』あったのか?」
九品の子息という駒を振るだけの何かが岐崔で起きている。
終わってしまえば大したことではないのかもしれない。真実を知ったところで文輝には何も出来ないのかもしれない。それでも何も知らないでただ盤上で右往左往しているのはどうにも居心地が悪い。
暮春は知っているのか、と問えば彼女は鷹揚に笑って答えた。
「さてな。所詮受付の中科生などが知る範疇ではないのだろうよ」
「随分と余裕だな。
「首夏、おまえが吠えても何も変わらん。夕刻までには、とおまえも言われたのだろう? 大人しく籠の鳥を演じていた方が何倍も『楽』だ」
言葉尻を捕えられて正論が返ってくる。楽は探せばどこにでも転がっている。考え方、着眼点、その一つひとつをほんの少しずらすだけでも無数に見つかる。暮春が言っているのは
「首夏、得体の知れない異常事態をこの身で体感出来るのだ。わたしは寧ろ幸運だったと思うが?」
「お前は変わらねぇな」
常に前だけを見て走っている。どんな状況もどんな境遇も好機に変えるだけの
そんな暮春を見ていると自身の至らなさを嫌というほど思い知らされるから距離を置いた。劣等感と自己不全感に
この世の全てに真摯に応対する彼女を見ていると息が詰まる。文輝の持つ人徳は人への
性格と価値観が根本的に違うのだ。
それでも、文輝は知っている。文輝と暮春が「対等に」会話することが許されているのは長くても二年先までだ。二人とも半人前の見習いだからこそ、こうして話すことが出来るが一人前の扱いを受け、正式に部隊に配属されれば
今朝、
左尚書の控室で、
「暮春、今朝、
「そうか」
その淡々とした返答に彼女が既に間諜の審査を受けていることを確信する。
間諜の審査を受けたのが自分一人ではないと頭のどこかでは理解していたが、こうも淡々と受け流されると対抗意識を燃やすだけ虚しいような気持ちにすらなる。
「お前はいつ会った?」
「わたしは十日前だ」
正八位下の暮春と
「どんな方だった?」
「聞いてどうする」
面倒だと表情で語る暮春に対して挫けることなく言葉が続く。
「ただの暇つぶしだ。他意はない。誓ってもいい」
「誰に?」
「
「なるほど、ならばわたしも心して聞かねばならんな」
言って暮春の表情が綻ぶ。文輝が暮春の性質を理解しているように彼女は文輝の性質を理解している。誇り高き父、
これほどまでに文輝と暮春の世界は隣り合い、重なり合っているのにお互いにそれを否定してきた。多分、暮春も気付いているだろう。この部屋から出た後に関わり合うことはない。
だから、彼女もまた文輝の雑談に応じた。奇跡ではない。いっときの気紛れでもない。
そのことを何重にも噛み締めながら、暮春の出した交換条件――文輝は彼の出会った国主の間諜の話も聞かせる――に応じる為に話を始めた。
これが岐崔に残された束の間の安寧だということを二人はまだ知らない。
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