第七話 左尚書令

 それを理解したうえで戦務長せんむちょう通信士つうしんし伝頼鳥てんらいちょうを飛ばすよう命じた筈だ。棕若しゅじゃく自らが文輝ぶんきを迎えるというのは戦務長にとっても意外だったようだが、何にせよ彼の恫喝どうかつは成功した。

 文輝は胡床いすから立ち上がり衣服を整える。そして、戦務長から薄紅の文を受け取って警邏隊けいらたいの役所を出立しゅったつした。

 左尚書さしょうしょ中城ちゅうじょうの奥まった場所にあり、武官と文官の中立を旨とする内府ないふと隣接している。その立地が尚書しょうしょという役所の格の高さを示していた。左官府さかんふでは国主こくしゅが住まう禁裏きんりに近ければ近いほど重要な役所であるとされる。

 右官府うかんふのように流動的な配置転換を続ける役所の性質は左官府でも城下でもあまり理解されず、ともすれば右官府三部の案内所の官吏は閑職かんしょくだと認識されることも珍しくはない。

 その実、案内所の官吏は目まぐるしく変わる自部署の正確な位置を常に把握しなければならないうえ、守衛の目を掻い潜って侵入した不審者の識別をも秘密裏に行っていることから、武官はこの任には誇りを持っている。右官の花形である兵部ひょうぶ、その下働きである文輝よりも工部こうぶの案内所の配属された九品きゅうほんの同級の方が上位であることもここに由来していた。

 その工部の案内所が移転したのは半月ほど前のことだ。三部の案内所の移転時には三府さんぷの全ての官吏に通達が回る。文輝もその回覧を見たし、記憶はしていたが新しい案内所の前を通りかかるのは今日が初めてだ。

 警邏隊の屯所とんしょ陽黎門ようれいもんのほど近くにある為、中城の内部を文輝が動き回ることは少ない。兵部の役所は文輝が中科を受けた年に大路おおじの南端に移転して以来その場所を動いていない。兵部のうまや衛生班えいせいはんも全て南側にあったから、文輝は右官府の北側の地理には明るくない。

 遠くの部署への伝達は鳥が飛ぶ。城下の夜間屯所へも鳥が飛ぶ。

 文輝の生活は右官府でも陽黎門の南側での移動だけでこと足りた。

 それは多分伶世れいせいにとっても同じだろう。右官府の女官にょかん見習いの任を拝命して以来、彼女は警邏隊に属している。女官が文を運ぶことはないし資材の管理もすることはない。来年は違う役所に配属されるかもしれないが、それでも伶世が女官見習いであり続ける以上、彼女が右官府を歩き回る日など来ないだろう。

 文輝もそうして中科ちゅうかを終える筈だった。

 その目算が狂い始めている。

 そのことに幾ばくかの不安を覚えながら、懐に仕舞った薄紅の文の存在を強く意識する。同級に会うのはこの文を棕若に届けてからでも十分に間に合う。そう結論付けて文輝は工部の案内所の前を通り過ぎた。

 工部の案内所から左尚書まではすぐで、次の小路こうじを左に折れ、大路を北上すると間もなく緑色の扁額へんがくを掲げた門が見える。

 役所の移転がない左官府らしい自己主張だ。

 右官府では絶対に見られない光景に同じ中城でも別世界に来たのだということを嫌というほど実感させられた文輝は溜息を一つ吐いて門をくぐった。

 門の内側の受付で棕若と面会の約束をしている、と告げると連絡が回っていたらしく、待つことなく尚書令室に通された。

 二階建ての役所の北西に位置するその部屋には西側の窓しかなく、陽はまだ射さない。薄暗い室内の最奥に老翁ろうおうが座っている。執務机の上に積まれた書簡。装飾が施された立派な硯箱すずりばこは二つに仕切られ墨と朱墨しゅぼくとで満たされている。従臣じゅうしんを呼ぶ為の鈴ですらも美しい彫塑ちょうそで、文輝の知っている役所とは何もかもが違っていた。孫家の屋敷で会う棕若からは想像も出来なかった荘厳そうごんな面持ちに文輝は無意識に唾を呑み込み、そして何とか拱手きょうしゅして身を折る。


「ここでは『初めまして』だね、小戴しょうたい殿」

りゅう校尉こういより文を預かって参りました」

「返答を急いでいる、と通信士から聞いているよ。文をもらえるかな?」

はい


 身を起こし、執務机の前に近づいて文輝は懐中から薄紅の文を取り出した。

 それを棕若の方へ向けて差し出す。棕若は慣れた手付きで文を受け取って中身を広げ、そして俄かに表情を曇らせる。部屋の入口で直立していた従臣がその変化を察し、徐に近寄ってきた。

 そして棕若と小声で二言三言やり取りをして静かに部屋を出て行く。残った棕若は呆然とする文輝に言った。


「小戴殿、しばらく別室で待っていてもらいたいのだが」

「何か問題でもあったのですか?」


 その問いに棕若は瞼を伏せ、ゆっくりと首を横に振る。机の上で組まれた両手がそっと解かれた。


「僕の一存では返答が出来そうにない、としか言えない」


 今、香薛こうせつ――棕若の従臣の名で、文輝も少しは面識がある――が担当官を集めているところだね、と続く。

 文輝には何が起きているのかを知る術すらないが戦務長が託した文の内容が重要だったことだけがはっきりしている。左尚書の諸官を集めなければ返答が出せない、などという事態が頻発ひんぱつする筈がない。薄紅の文はそれだけの影響力を持っていた。警邏隊に置いてきた伝頼鳥を思い出す。文輝が戻らなければ通信士が開封してくれるだろうか。戦務長自らが文を優先しろと言ったのだから後で責任を問われることはないだろう。それでも、十五羽の鳥の中身を知らなければならない、という気持ちに駆られる。鳥と文の中身はつながっている。そして文輝には推し量ることも出来ないような未曾有の事態が起ころうとしている――あるいは既に起こっている。

 文輝は深く息を吸った。今、文輝に出来ることは一つしかない。


「本日中にはお返事をいただけるのですね?」

「夕刻の鐘までには必ず」

「承知いたしました」


 棕若の返答を待つことしか出来ない自分自身を歯がゆく思いながらも文輝はそれを受け入れる。戦務長が通信士を使ってまでも返答を必要としている。待たずに帰るなどという選択肢は端から存在しない。了承の意を伝えると、折よく戻ってきた香薛に控室まで案内された。

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