第四話 水煙草

 そして。


「橙色の瑪瑙めのうかんではまず布鞄ぬのかばんを買うだけの財がありません」


 貴石きせきは家筋と共に資本の大きさを示す。流行りの布鞄は決して安い品ではない。中科ちゅうか三年目の文輝ぶんき俸禄ほうろくではひと月分が軽く飛ぶ。文輝がそれを持っているのはたい家にそれだけの余裕があるからで、自ら買うだけの甲斐性はまだない。その安くはない鞄を売っているのは他ならない綾織あやおりの商人である服飾商だ。鞄の価値を知らない筈がない。男の持っていた環の貴石では自らの為にそれを買うことは叶わないだろう。そんなことをするような商人は金銭感覚が破綻していると暗に広めて回るようなもので、信頼を損なう。だから、先ほどの男が真実綾織の商人であるのならば布鞄を持っている筈がない。

 一つ目の違和の正体を知った。

 文輝の答えに深く頷いた守衛は出来の悪い教え子に説く顔で二つ目の違和の解を求める。


「それで?」

「その高価な鞄に入れるだけの書を買う余裕は綾織の商人にはありません」


 文武官ぶんぶかんが持つ書はいずれも高価だ。だから、より高価な布鞄を買ってでも保護しようとする。中科の文輝たちは国から教本としてそれらを支給されるが、二十代半ばの商人の男に布鞄に入れる価値のある高価な書をくれてやる奇特なものはいないだろう。綾織の商人に必要な学は商法と目利きをする為の最低限の知識だけだ。大枚たいまいをはたいて書を購入してまで知らなければならないようなことは存在しない。

 そして、その事実もまた一つの結論を雄弁に語る。

 布鞄の中身は書ではない。

 二つ目の違和の正体も知った。

 同時にではあの膨らみの正体が何だったのかを知りたい気がしたが、文輝は結論を焦るような性質ではない。守衛の問いに答えていけば自ずと知れる。

 だから、文輝は守衛の言葉を待ちながら、三つめの違和の考察を始めた。


「そうだな」


 まだあるだろう。眼差しで問われて文輝は記憶の糸を手繰った。

 多分これが最初に得た違和だ。そして文輝がこれから武官の社会を生きていく為にはっきりと認識しなければならない根源的な問題でもある。


「仕立て屋が私とぶつかって、少しよろけるだけ、で留まるのなら私には鍛錬が足りておりません」


 文輝は武官だ。朝夕の職務を以外に与えられた自由時間は軍法の自習と槍術そうじゅつの鍛錬に充てている。初科しょかの頃から文輝は鍛錬が好きだった。研鑽けんさんを積んだ分の結果は模擬戦闘に返ってくる。得物えものは何でも十人並みに扱えたが、長槍ちょうそうが最も得意で、修科しゅうかを終えた後は騎馬兵を志願するつもりだった。つもりだったが、当然文輝には実戦経験はまだない。だのに警邏隊けいらたいで十七にしてはよく出来るという評価を得て慢心していた自分に気付く。

 別に何も無官ぶかんの民を転ばせねばならないとまでは思っていない。

 相手が本当は無官ではなく、間諜かんちょう――武官が最も警戒しなければならない刺客にもなる存在だったのだから落ち度はないということも出来る。それでも、文輝は己を恥じた。

 先ほどの間諜が少しよろけたのが演技だったということを見抜けないほど認識が不足している。それだけではない。国主の間諜を務めるものが広い門の下で誰かと「不注意で」ぶつかるわけがないのだ。文輝は武官のお仕着せを着ている。一見して武官とわかる相手にぶつかってきたのが意図した行為でない筈がない。どういう理由で、何の利があってそうしたのかはわからないが、文輝は間諜に「試された」のだ。そして守衛はそれを即座に理解したから渋い顔をした。

 文輝は次の春には中科を終えるが、まだまだ学ばねばならないことがある。

 そのことを守衛は暗に示した。それが彼の配慮であることを疑わなければならないほどには幼くはなかったから素直に頭を下げる。

 守衛は苦笑して下げた文輝の頭を軽く叩いた。


小戴しょうたい、人にものを尋ねるのならそこまで思考してからにするのだな」


 世間は俺ほどに優しいとは限らん。守衛の言葉に文輝は自らの境遇が恵まれていることを改めて知る。戴家は九品きゅうほんの一つだ。品格があり、同時に財も縁故えんこも持つ。ときにはそれが妬みの材料になることを文輝も知っている。初科にいた頃から明確な理由もなく敬遠されることは決して珍しいことではなかった。

 九品のうち、武家は五つだ。その中に文輝と同じ年に生まれた男子はいないが、女子はおり、初科で一度だけ同じ組になった。彼女も文輝と同じように周囲からは一線を引かれた存在で、多分同じように不条理を感じていただろう。それでも文輝も彼女もお互いに同情をしなかった。西白国さいはくこくにおいては女性でも将軍位を得ることが出来る。将軍位を志すのに傷の舐め合いをするような弱さは必要ではない。八つにして二人ともがそれを理解していたから、必要最低限の交流は持ったが、お互いを特別扱いしようとはしなかった。

 中科三年目の文輝は警邏隊の下働きで従八位上じゅはちいじょう。彼女の方が文輝より一つ位が上で工部こうぶ――武官を動員しての土木工事を管轄する役所の案内係を務めている。位は正八位下しょうはちいげだが、二人とも中科であり、まだ仮の官位だ。俸禄ほうろくは正規の半額しか支給されないし、このまま役所に残ってたとして、同じだけの官位を授けられるとは限らない。

 それでも。彼女も九品だ。修科へ進むことはもう決まっているようなもので、あと半年もすれば文輝たちは再び同級になる。それまでにもう一度会って話がしてみたいと不意に思った。

 今なら、彼女と意味のある会話が出来る、だなんて無責任なことを思う。その思いをくれたのはあの間諜と守衛だ。

 だから。


水煙草みずたばこ、ありがとうございました」


 生姜しょうがが練り込んである水煙草を口にしたおかげで秋の終わりとは思えないほどの冷たい風にも耐えられる。文輝が仕事をするのに大いに手助けとなった、という体で礼を言うと守衛はその裏の本音も見抜いたのだろう。それでも彼は大らかに笑って陽黎門ようれいもんをくぐる許可をくれた。文輝は軽く会釈して門の中へ駆け込む。

 運命の岐路が足音もなく迫っていることを文輝はまだ知らない。

 岐崔ぎさいの一日がゆっくりと始まる。

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