第二話 綾織の商人

 年の頃は二十代半ば、体格は痩身で藍色の平服を着ている。平服へいふくには特別な定めはなく、そこから相手の身分を探るのは不可能だと察し次を当たる。

 手に持っているのは書物を携行する目的で作られた布鞄ぬのかばん。今年の夏ごろ、東部で商品化され岐崔ひさいにはひと月遅れで持ち込まれたところ文官たちを中心に爆発的に流行した。武官である文輝ぶんきも母親の勧めで一つ持っており、十日に一度行われる中科ちゅうかの討論研修に参加するのに使用している。相手の布鞄は随分と膨らんでいるのが見て取れた。武官が携行する書物は概ね一冊、多くても二冊だからこれほど膨らむことはない。

 そこまで確かめて幾ばくかの違和を残しながら文輝は立ち上がった。

 正面から顔を見る。警邏隊けいらたいに配属されてからこちら、多くの武官の顔を覚えてきたが、今相対した男には全く見覚えがない。守衛に不慮の事故であることを証言してもらおうと視線をそちらに走らせた。

 すると。


「失礼だが、かんを拝見させていただきたい」


 守衛は渋い顔で環の提示を求めた。

 環、というのは国色に彩られた金属で作られた文字通り円状の装身具で家柄と共に官位または職位を表す意匠が施されている。中科に合格すると同時に与えられ、昇進または進学、或いは退官や婚姻の際に「まじない」によって情報が更新される。いわば身分証明を成すものであり、王族から流民るみんに至るまで成人で環を持たないものはいない。

 中城ちゅうじょうの守衛は環の識別においては関所以上の精度を求められ、必要に応じて諸官の環と持ち主の顔を暗記している。文輝が環を提示して陽黎門をくぐったのは中科一年目の最初の三日だけだ。それほど守衛の記憶力は優れている。退官してもなお数年以上の期間、守衛が環の持ち主を忘れることはない、と知ったとき文輝は自らにその任が務まらないことを悟った。

 その、守衛が男に環の提示を求める。

 中科を受験して以来、二年半中城に通ったがこんな場面を見るのは初めてだ。文輝は瞠目し、事の成り行きを見守る。守衛の言葉に抗うのはそれだけでも罪になる為、まともな相手ならば必ず従う。

 見覚えのない男もそれは心得ているのだろう。守衛の指示に従い、首元から自らの環を取り出し、示した。

 白銀――西白国さいはくこくの国色だ――の環。遠目にしか見えなかったが、刻まれている色は青――商人で、綾織あやおりの文様だから服飾関係であることが伝わる。家柄を示す貴石きせきは橙色の瑪瑙めのうだが粒が小さく、西方諸氏せいほうしょしの出身であることを意味していた。

 中科の途中である文輝でも一目でその程度は把握出来る。身分上、この環の持ち主は警邏隊の下働きである文輝と対等だ。それでも敬語を崩さずに男の無事を確かめた。


「お体に障りはありませんか?」

「特には」


 単語に毛が生えた程度の返答がある。それでも、男がこの接触事故を取り沙汰す気がないことは知れたから文輝は軽く頭を下げることで応える。一連の流れを見ていた守衛も頷き、陽黎門ようれいもんを通過することを認めた。


「手間を取らせた。もう行ってよい」


 男は守衛に浅く礼をして石畳の上を慎重に歩いていく。文輝も問題がないのであれば役所へ向かおうとするが「小戴しょうたい、まぁ水煙草みずたばこでもどうだ」という守衛の声に呼び止められた。小戴、というのは愛称で「たい家の坊ちゃん」という意味になる。水煙草は煙草の名を持っているがその実、ただ香草の香りを付けただけの水あめで、季節に合わせた効能を持っているものが売られている。晩秋から冬にかけては体を温める性質のものが一般的に流通していた。早朝の寒さに水煙草は諸手を挙げて歓迎出来る提案だったので、文輝は一服だけなら、と承知して門前に残ることを選んだ。

 守衛が器用に水煙草を取り分けるのを見ながら、文輝は呟く。


「しかし、こんな早朝に仕立て屋が中城で何の用件なのでしょうか」


 中城に住まうのは国主こくしゅと王族だけだ。直系を外れた王族は臣籍降下し、公族こうぞくと呼ばれ市井しせいで暮らすことになっていた。出仕しゅっしすべき場所に住んでいる王族の朝は中城で最も遅く、あと一刻ほどは眠りに就いているだろう。当代の国主である朱氏しゅし景祥けいしょうは異民族の母親を持ち、後宮にあっても異なる文化感の中にいる。その為、王族にも関わらず朝が早いことで有名だ。

 主上しゅじょうの命でしょうか、と重ねて呟けば守衛は呆れた顔をした。


「なんだ、小戴。お前は気が付かなかったのか?」

「何に、でしょうか」


 これだから若い者は困る、といった風情で非難され、文輝は困惑する。守衛はそんな文輝に構うことなく水煙草を丸めた棒を差し出した。ありがとうございます、言って文輝はそれを受け取る。守衛はその間、顔色一つ変えずに「九品きゅうほんは皆性善説で生きているのか?」などと言ったりもした。


「お前のとこの二番目もそうだったが、もう少し人を疑うということを覚えねばならん」


 どうして父である戴将軍に似なかったのだと暗に責められたが、文輝からすれば小兄しょうけいは十分すぎるほど利発だ。外見、性格、ともに母親に似て柔和で人としての徳を持つ反面、武略にも強い。駆け引きの腕も並以上で将軍位を得た時期は戴家において秀才の類である大兄たいけいより幾らか早かったほどだ。大兄自身、小兄が将軍位を得た春には苦笑を零している。父に似て剛毅で融通の利かない自分では無理だっただろうと賞賛を送ったのを文輝は憧れの思いで見た。

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