ふつうのやりとり
緊急事態で急に接近してくる人って何なんだろう。
恋愛心理学でいう“吊り橋効果”を狙っているのだろうか。
メッセージは同年代だが、あまり、いや、ほとんどやりとりのない同僚からだった。
『ずっとランプついてるけど、薫ちゃん、休憩できてる?』
ぎくっとしてパソコン画面の右下にあるツールバーを確認すると“在席”を意味する緑色のランプが点灯していた。
薫の会社で使う専用チャットルームソフトは、使用しているとパソコンのツールバーにランプが灯り、その色で誰でも勤務状態を判断できるようになっている。例えば、赤色は“不在”、オレンジ色は“ミーティング中”、そして緑色は“在席”つまり仕事中を意味する。
チャットルームソフトの仕様上、パソコンを5分以上使っていないと自動的に赤色になるように設定されているため、お昼休憩などは主に赤色になる。
出勤しているときは、オフィスのチャイムを合図に自然と休憩を取っていたが、在宅勤務だと時間の流れに区切りがなく、忙しいとつい休憩時間がなくなってしまう。
仕事というのは人のためにするもの。
自分のペースで進めるのは関わる人たちに失礼なことですよ。
入社したての頃に教育係の先輩から薫はそう叱咤を受けた。そして、それからずっと自分でも守り続けていた考え方だった。
今はそれが揺るぎつつある。
それが正しいことなのか、間違っていることなのかわからない。
間違っていたとして、それを責める人はそばにいない。
ランプをずっと見てるなんてこの人、暇かよと、ひねくれた考えが一瞬よぎったが、気にかけてくれたという、人のあたたかさがそれを上書きした。
『大丈夫です!ネット回線の調子が悪くて、ついついパソコン触りっぱなしになっちゃうんですよね(汗)休憩できてます!ご心配をおかけして申し訳ありません!』
適当にポップに返信する。距離感が難しい。
薫はメッセージをくれた彼の顔を思い出す。
“優しそう”に尽きる。
何度か一緒にランチを食べたり、タイミングが合うことが多いのか職場への行き帰りを共にしたりしただけの人。
そういえば。
在宅勤務が始まる2日前にも帰りが一緒になったことを思い出した。彼女が長らくいないことや女の子は自己主張の少ない守りたくなるタイプが好きだとか言っていた気がする。
正直、それどころじゃなくて、曖昧に笑って返事をして、「じゃあ、ここなので」と、薫の家の前で別れた。
その時の彼の顔は全く思い出せない。
記憶の彼は顔の部分だけポカンと穴が空いている。
ピロン。
『そうですか!頑張りすぎていないかなと心配してしまいました。顔を合わせないとやっぱりよくわからないものですね』
『ありがとうございます!優しさが沁みます(涙)』
ピロン。
『泣かないで!1人だと心細くなるよね!でも大丈夫!頑張ろう!』
意外とほんわかしたやりとりに、雑な挨拶をしてしまった別れ際の罪悪感が少し消えた。
“大丈夫”になる日は来るのだろうか。
立ったまま暮れていく空を窓越しから見ながらふと薫は泣きたくなった。
こんな日々は一体いつまで続くのだろう。
部屋は毎秒暗くなる。
だが、真っ暗になったところで、それが何なのだろう。
パソコンの画面だけがどんどん明るくなって目が眩む。
薫は目を閉じてその場にしゃがみ込んだ。
怖い。
何もかもが。
敗北感に似た恐怖が心を浸した。
ぼーっとして笑ってごまかすことはもはや出来ない。
いや、これは底だ。
世界中で皆が感じている底だ。
あとは、上がるだけだ。
ブブブ、ブブッ、ブブブ、ブブッ。
どこかでスマホが震えている。
私の長所は楽天的なところなのだよ、お姉ちゃん。
まぶたを開こうとした瞬間、違和感を覚えた。
あれ。
バイブ音、短くなってない?
違うスマホがこの部屋にある。
じゃあ、その持ち主は?
ガサガサズルズルザサッ。
背後。床を這う不快な音が聞こえてくる。
そして。
それはもう目の前に存在を移している。
モンスターなどいない。
おばけなんていない。
じゃあ、これは何。
こめかみにじわりと汗が浮かぶ。
そっと伸ばした右手の小指が電気のリモコンに当たる。
その勢いのまま『全灯』ボタンを押して目を開く。
目が眩んで、視界が真っ白になった。
やっぱり暗闇に潜む怖いものは実際にはいないんだなと頭の片隅が理性的に思った。
目が実像を結ぶ頃、薫の目の前には、顔にポカンと穴の開いた男が立っていた。
「お待たせ」
薫は力の限り叫んだが、その声は誰にも届かない。
理不尽な目にあうのはいつも @takahashinao
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