なくなる

自宅での仕事は想像以上に面倒だった。

1週間前から在宅勤務仕様になった自分の部屋を眺めて、薫はぼんやり思い返す。


まず、会社から借りてきたパソコンやその周辺機器のコードで小さな部屋は埋まった。


持ち帰ってきた紙の資料は、会社にあるとき以上に存在感があり、部屋と脳みそは混乱を極めた。


自宅にいつもはないものが溢れかえり、いつもあるものがなくなることが多くなった。

エアコンのリモコン、スマホの充電器、腕時計、お気に入りのピアスなどがなくなったものの良い例だ。

そういえば、と部屋を見まわす。

飲みかけのお茶が入ったペットボトルもいつのまにかなくなったなあ。

自分の管理能力のなさにあきれて、薫はため息をつく。


会社ではパソコンを立ち上げるだけで済む作業も、家ではまず回線に不具合がないかのチェックが必要になる。慣れない動作確認は毎回ヒヤヒヤして、ストレスだ。始業時間の前からインターネット回線やシステムの不具合がないかチェックするので、いつもより早い時間に起きていないといけなくなった。


初めは朝寝坊ができると喜び、現実感もなくふわふわしていたが、在宅勤務が始まって数日で、その喜びは普段しない苦労にかき消され、そしてそれにもいずれ慣れた。


ピロン。

はっとした。


業務用のパソコンがメールの受信を知らせるアラームが鳴る。

業務の依頼だろうか。またぼーっしていた自分を反省する。


初めこそ業務の内容確認で自宅にも電話がかかってきていた。だが今は会社独自のチャットサービスを利用することになり、自分を呼ぶのは電子音だけになった。


業務内容は何も変わらない。だけど、声や仕草、人からの生の反応を知らない仕事は、人からの依頼であることを忘れてしまいそうになる。


自分を必要としているのはこのパソコンだけではないだろうかと考えてしまう。


ダメだ。ずっと1人だと考えが行き詰まる。

伸びた前髪を後ろに掻き上げ、気持ちをしゃんとさせる。毎月通っていた美容院も今は我慢だ。


思考がネガティブになりつつあることに妙な危機感を覚える。

非日常が日常になっていくことを、頭でわかっていても心がついてきていないようだ。


よし、このメールは明るく返そうと冷めかけたカップのコーヒーを1口飲み、メールを開く。

思ったとおり業務の依頼メールだ。

内容をざっと確認し『承知しました!』と、普段つけないエクスクラメーションマークをつけて送信をクリックした。


外に出たいな。強く思った。


部屋に1つだけある窓からは西日が差しこみ、部屋はオレンジ色をしていた。影はもう群青色に染まっている。思ったとおり、テーブルの時計はもう18時を指そうとしていた。


コンビニに夕飯を買いに行こうか。

薫は荒れた場所から財布とマスクを探す。

毎日、何も気にせず外出していた頃が懐かしい。

今まで外に出るときに注意していたことが通用しなくなり、これからは何に気をつけるべきなのか。

いろんな感覚が今はすっかり狂ってしまった。


外に出ていくことが怖い。


ピロン。

部屋に立ちつくしているとパソコンに呼ばれた。はっとして強い太陽の光に反射する画面を見ると、チャットルームからメッセージが入っていた。

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