理不尽な目にあうのはいつも

@takahashinao

きっかけ

誰にでも怖いものの1つや2つある。


薫は朝から続けていたデータ入力の手を止めてふと考えた。


例えば、2つ年上の姉の美香は階段が怖い。

正確には、自分が階段を降りている時に後続してくる存在が怖いらしい。首筋がぞくぞくするそうだ。


薫たちは一時期、集合団地の5階に住んでいたことがあるのだが、姉は特にその階段を怖がって嫌がった。


近所の人たちも優しくて、家族ぐるみで友だちもたくさんできた記憶もあるから、環境が悪いわけではなかったのだろうが、とにかく暗い印象のある建物だった。その湿っぽくて薄暗い階段を家族で降りていると、先頭は嫌だと、いつもは頼りになる姉が怯えて怒っていた。


薫、あんたも嫌だよね。

もう!嫌なことははっきり言わなきゃ。

誰にも伝わらないよ。


同意を求められヘラヘラしていた薫にも、姉はよく焦れて怒っていた。


じゃあ、私は、と聞かれたら。

薫はまた考える。


私は真っ暗な部屋に入って電気をつける瞬間が怖い。


パッと明るくなったとき、目の前に見知らぬ人が立っているかもしれない。

その想像がどうしても拭えないのだ。


幼い頃から暗闇自体より明るさが変わる瞬間が怖かった。

きっかけはたぶん幼い頃に見たファンタジーアニメだろう。


お話の大筋はこうだ。

とある森にすむ美しい娘。彼女は実はその国の姫君であり、偶然森で出会った隣の国の王子と恋に落ちるというラブストーリーだったはずだが、その一場面にこんなものがあった。


森の小さな家まで娘を迎えに来た王子は、その家から聞こえる「入っておいで」という声に導かれるまま、開かれたドアの前に立った。

窓を閉め切っているせいか、昼間だというのに部屋の中は真っ暗だ。

普段なら思慮深く賢い青年である王子も、恋の熱が彼の分別をなくさせていた。

「ドアをお閉め」という声のまま、部屋に足を踏み入れ、ドアを閉めた瞬間。


ぎゃらがしゃしゃきゃぎゃらあああ。


獣たちの耳障りな鳴き声や呻き声が響く。


王子を亡きものにしようとしていたお妃の仕業で、彼は部屋に潜んでいたモンスターたちに捕らえられてしまうのだ。


黒い画面の中で小さな2対の獰猛な黄色い光が瞬く。

暴れる影。


“残忍”という言葉は当時知らなかったけれど、その感触を幼心で覚えてしまった気がする。


薫がふいにローテーブルに置いた目覚まし時計に目をやると14時30分を回っていた。

いけない。

家にいるとどうしても時間の感覚が鈍る。

無機質なオフィスで毎日決まった時間に流れていた電子チャイムの音を懐かしく思いながら、冷めたくなったマグカップを手にミニキッチンへ向かった。


カップを冷たい水でさっと洗って、乾燥カゴに置く。キリッとした冷たさに、散漫だった意識が整理されていくようだ。


大人になった今、怖いものは増えなくなった。いや、怖がるポイントが変わっただけかもしれないと薫は思う。

モンスターよりモンスタークライアントの方が手強いし、透明なおばけより自分の将来の不透明さの方が切実に怖い。


ブブブブブブブブ。


どこかでスマホが震えている。

たぶん美香からのメールだろう。

面倒見の良い姉から、定期的に実家に関する連絡事項と小言が届く。


あんたはいつもぼーっとしてるから。

薫に対するお決まりの小言だ。

だが、薫は気にしていなかった。美香には短所に見えているかもしれないが、薫は楽天家という長所だと思うようにしている。

そそっかしくて注意力散漫なのは認めるが、人並みに誠実に暮らしている。1人暮らしも3年目に突入して、自活しているという自信も出てきた。


ただ、仕事から1人暮らしの部屋に帰ってきて、部屋に電気をつける瞬間だけ、なぜか無防備な子どもに戻り、あの頃のように緊張してしまうのだった。


電気ポットに水を注ぎ、スイッチを押す。しばらくするとお湯が沸いた。

インスタントコーヒーを入れた新しいカップにお湯を注いでいると、自然と首が傾いだ。


それにしても確かに最近、その緊張が強くなったように感じる。


熱いカップを手に自宅内の即席ミニオフィスに戻る。


だが薫はそれも神経質になっているからだろうと思った。新型ウィルスの蔓延で社会や日常が変わり始めている。その不安を心の柔らかい部分が敏感に察知しているのだろう。


世界中で共通して怖いものが増えてしまった。

目に見えないものは誰だって怖い。


薫の勤め先が通勤人数を少なくする取り組みとして、在宅ワークを推奨し始めてもう1週間が経っていた。

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