前編 アキトシ
ここは、どこだ?
光も音も感じられない世界にただ漂っているかのような感覚。今まで味わったことのない感覚だったが、とても気持ちがよかった。このままずっとここにいたいと思えるほどに。
僕は死んだはずでは。覚えているのは薬を飲んだところまでだった。ここは死後の世界だろうか?
『アキトシよ』
何だ?頭の中に声が直接響く。
『お前は死んだ。ゆえにお前はこれから旅立たねばならない。死後の世界へと。生から死、死から生。ヒトは輪廻の理を巡っていく。この旅立ちも一つの区切りに過ぎぬ』
旅立ち?死後の世界?輪廻の理?こちらの疑問をよそに声の主は説明を続けていく。
『人は死後、生前の行いによって三つの行き先の内、一つへと旅立っていく。
一つはニルヴァーナ。人生を味わいつくし、思い残すことはないと心の底から思えた状態で死を迎えた者のみが行く場所。輪廻の理から外れて無に帰っていく。
もう一つはサンサーラ。生への執着等、現世に未練を残した状態で死を迎えた者が行く場所。輪廻の理を巡り、生前の行動、つまりカルマの結晶によって次の多様な存在となって生まれ変わっていく』
ニルヴァーナにサンサーラ。もう生きていくのが嫌だと自ら命を絶った者が行く先はニルヴァーナなんだろうか?
『最後の一つがナラカ。自殺という大罪を犯した者が行く場所』
全身に緊張が走る。
『輪廻の理から外れて、永遠に絶えることのない極限の苦しみを受け続ける』
……そうか。もはや自嘲的な笑いを浮かべるしかなかった。現実世界の苦しみから逃れるために自ら死ぬことを選んだのに、死んだ先でも苦しまなきゃいけないなんて。それも永遠に。
「―――分かりました」
力のない同意の声。きっと苦しむことが僕の逃れられない運命なんだろう。
『が、お前の人生には若干、同情の余地がある。お前にはどうしようもない部分、未熟な両親、劣悪な学校環境等によって人生の大部分が定められてしまったという事実は否めない』
信じられなかった。今までの僕の人生で同情の言葉をかけてもらったことがあっただろうか?自己責任―――何度この一言で僕の抱えていたものが切り捨てられてきたことだろう。死んだ後にずっと聞きたかった言葉が聞けるとは。体の奥底からこみ上げてくるものがある。生前だったら、きっと泣いていたことだろう。もっと前に、小田さんのインタビュー記事を見る前にこの言葉に出会えていたら、少しは人生をいい方向に変えられたんじゃないだろうか?そう思わずにはいられなかった。
『そこでお前には特別にチャンスを、自分裁判のチャンスを与えよう』
「自分裁判?」
『ティッピング・ポイント―――転換点。ヒトを別の存在へと変えてしまう衝撃的な出来事を指す。お前の人生をティッピング・ポイントごとに区切り、独立した人格として分割する。分割した人格全員で話し合って何故自ら命を絶たねばいけなかったか原因を話し合うがいい。全人格が納得する原因を突き止めることが出来たなら、特別に死後の行き先を選択する権利を与えよう』
自ら命を絶った原因の究明―――。
『ふむ。お前の人生を見たところ、ティッピング・ポイントは三つだな。父親の死、漫画との出会い、刑務所への投獄。ではお前は四つの人格に分割される。四人で話し合って原因を突き止めるがいい。自分裁判の開廷だ』
「いいか、アキトシ。お前はプロのサッカー選手になるんだ。父さんの叶えることが出来なかった夢をお前が叶えるんだ!」
物心ついたころから繰り返し父さんから聞かされてきた言葉。その言葉は父さんにとっては願望の発露であり、僕にとっては呪いの言葉となった。子にとって親は神であり、神の言葉は僕の人生を導く絶体の指針となった。
なんで?どうして?当たり前の疑問を感じるようになるよりも早く、神の言葉は僕の体へと染み込んでいき、ただがむしゃらに神の指示通りに走り続けた。
僕が走り続けた道には喜びも楽しみもなく、ただ課され続ける義務だけがあった。
サッカーの試合後にいつも繰り返された光景。試合は僕が二点取って、二対〇で勝った。チームメイトが観戦に来ていた親に試合に勝ったことを褒められながら帰っていく中、試合で最も活躍した僕だけがグラウンドに一人取り残されて叱責され続けた。二点取ったことなど良かった点を褒められることは全くなく、悪かった点だけを延々と指摘され続ける。
もし、プロのサッカー選手になれたら、父さんの夢を僕が叶えることができたなら、父さんは僕を褒めてくれるだろうか?僕を認めてくれるだろうか?
僕はただそれだけを信じて茨の道を走り続けた。
夕食の時間。ダイニングテーブルの上には伏せられたお椀とラップをかけられたおかず皿が並んでいる。目の前では母さんが時計に目をやりながら、規則正しいリズムでテーブルを指で叩いている。
時計を見やる。いつもの夕食の時間から一時間が経っていた。僕の家では父さんより先に夕食を食べることは許されておらず、父さんが帰ってくるまで何時間でも待たなければいけなかった。
お腹が鳴る。その音が聞こえたのか、母さんが僕をキッと睨む。視線から逃れるようにさっと顔を伏せる。
「あくまでこの夕食は父さんのために作っているんであって、アンタのために作っているわけじゃないからね。アンタの分はただのおまけ。それを忘れないでね」
アンタという言葉が重くのしかかってくる。母さんは僕のことをアンタ、お前と呼び、決して名前で呼んではくれない。垂れた頭に大きなため息が注がれる。
「犬や猫じゃないんだから、毎日アタシ達のために仕事を頑張ってくれている父さんの帰りを黙って待てないのかしら?顔だけじゃなく、心まで醜い男だね、お前は!」
顔を伏せたまま、拳を握りしめてじっと耐える。
結局、父さんが帰ってきて夕食を食べることができたのは、いつもの時間より三時間遅れてからだった。
「アキトシ君」
一週間前に行われたテスト返却の時間。このクラスには木村姓が二人いるので、先生は僕のことを『アキトシ君』と呼び、もう一人を『木村君』と呼ぶ。
「―――ハイ」と小さく返事をし、立ち上がって先生の方へ歩いていく。先生の前に立つと、僕の顔を見てにっこりとほほ笑む。嫌な予感がした。祈るような気持ちで先生を見つめる。
「ハイ、アキトシ君の点数は一〇〇点です。今回のテストで一〇〇点を取ったのはアキトシ君ただ一人です」
祈りは通じずに、先生の言葉で教室の空気が一変する。唾を飲みこむ。恐る恐る答案を受け取って、ゆっくりと自席へと戻ろうとする。と、途中で何かに足が突っかかり、床に手をつく。
「オイオイ、アキトシ気を付けろよ」頭上から意地の悪い声が降ってくる。「クラスで唯一人一〇〇点取ったからって、足ほつれさせるほど喜ぶなよー」
見上げると中村君が口元を歪ませて見下ろしていた。
「点数が悪かった奴だっているんだからさー、少しはそういう奴の気持ち考えろよなー。なー、みんな」
中村君が投げかけた言葉は池に投げ込まれた石が波紋を広げるように次々と賛同の言葉を湧きおこしていった。
「そうだそうだー、いい点取ったからっていい気になるなよ!」
「点数が悪かった奴の気持ちを考えろよー」
「アキトシのくせに生意気だぞ!」
アキトシのくせに、か。
「ハイハイ、静かに」
先生が手を叩き、教室が一瞬にしてしんと静まり返る。
「ホラ、アキトシ君も立ち上がって」
「ハイ」
先生の声に促されて立ち上がる。
「確かに足をほつれさせて転んじゃうほど喜ぶのは、ちょっと度が過ぎてたわね」
先生は一〇〇点を取った嬉しさで足をほつれさせる人間がいると本気で思っているんだろうか?それともアキトシならそういうこともありうると思っているんだろうか?分からなかった。
「でも、クラスのみんなも少し言い過ぎよ。ということで謝りあいましょう。アキトシ君はクラスのみんなに他の人の気持ちも考えずに喜び過ぎたことを、クラスのみんなは少し言い過ぎたことを」
僕は何も悪くない。勉強を頑張ってテストで一〇〇点を取っただけだ。褒められることはあっても責められるいわれはどこにもない。足をかけられて転んだだけなのに僕が謝らなきゃいけないのは僕がアキトシだからだろうか?
「ハイ、まずはアキトシ君から」
先生の言葉に促される形で渋々頭を下げる。
「みんなの気持ちも考えずにはしゃぎ過ぎてすいませんでした」
頭を上げてみんなの顔をみた時、みんなが冷たい眼でこちらを見つめていた。
「ホラ、みんなも」
誰も口を開かない。中村君が立ち上がって僕の前に立つ。
「俺たちも少し言い過ぎた。悪かったよ」
無表情のまま謝罪の言葉を口にする。
「ハイ、これでみんな仲良しね。じゃあ、授業を再開しましょう」
満足気に黒板の前へと戻っていく。
先生、これでいいんですか?こんな形だけの謝罪の言葉が投げ交わされるのを見て満足なんですか?アキトシである僕には、心に浮かんだ言葉を投げかける資格は持ち合わせていなかった。
放課後、高校の屋上からぼんやりとグラウンドを見つめる。グラウンドでは野球部、サッカー部、テニス部がそれぞれのボールを追いかけている。各々充実した表情を浮かべている部員たち。教室では同じ机を並べているクラスメイトたちが遥か遠い世界の住人のように感じられた。
僕も一か月前まではあのグラウンドに立って必死にサッカーボールを追いかけていた。プロのサッカー選手になるという父さんの夢を叶えるために―――。
一か月前、父さんは心臓の発作でこの世を去った。
アキトシ、今日は○○をやるぞ。分かったよ、父さん。明日は○○だ。分かったよ、父さん。父さん、次は?父さんは僕の指揮官であり、僕はずっと父さんの言葉に従って生きてきた。その指揮官が急にいなくなってしまった。
糸の切れた操り人形に原因の分からない異常な疲労感と眠気が襲ってきた。いくら寝ても眠気は取れず、朝起きた時から疲労感に苛まれる毎日。父さんが生きていた時は毎日欠かすことのなかった激しいトレーニングはおろか、一日授業を受けることさえ難しくなっていった。
一か月。支えを失った人間が堕ちていくには充分な時間だった。サッカー部の練習にも、授業にも全く付いていくことが出来なくなった。授業中は眠気に勝てずにずっとうとうとし、放課後はサッカー部をクビになったことを母さんに伝えることができず、それを誤魔化すために屋上で時間を潰す。
アキトシである僕はこれからどうすればいんだろう?その問いに答えをくれる人はもうこの世にいなかった。
「オイ!お前はいつまで寝てんだよ!」
全ての大学受験に失敗し、浪人生になったにも関わらずにいつまでも布団にくるまって起きようとしない僕に母さんからの怒号が飛ぶ。母さんの声から逃れるために布団を頭の上まで引き上げる。
「いつまで寝てるんだって言ってんだよ!」
母さんが布団を引きはがそうとするも、必死に抵抗する。しばらく我慢比べが続いたものの、母さんが先に根をあげた。
「一年だ!」荒い息を吐きながら言葉を投げ捨てる。「全く勉強せずにだらけてばかりでも一年はこの家に置いてやる。でも来年も大学受験に失敗したら、いくら泣き言を言おうがこの家から追い出してやるから覚悟しとけよ!」
扉が荒々しく閉じられ、足音が遠ざかっていく。足音が聞こえなくなって暫くしてから顔を出して大きく息を吐く。布団から抜け出して机に座る。一番上の引き出しから鍵を取り出して二番目の引き出しの鍵を開ける。視線を扉へと向け、足音がしないことを確認した上で引き出しから漫画雑誌を取り出す。
小さい頃からずっと漫画、アニメ、ゲームといった娯楽の類は全て禁止されてきた。両親の方針に逆らって漫画やアニメに触れるという選択肢は、もしばれた時の両親の反応が恐くて取れずに学校でクラスメイトがアニメやゲームの話をしているのを羨望の眼差しで見ていることしか出来なかった。でも父さんが死んでそれも変わった。母さんが働きにでるようになり、僕に対しての監視の目が緩くなった。今までのタカが外れたように漫画雑誌を買いあさるようになり、クラスメイトが受験勉強に励む中、むさぼるように漫画を読み続けた。いつ母さんが気付いて禁止されるか分からない。読むなら今しかない。頭の中にはそれしかなく、大学受験に失敗するのも当然だった。
自分に対する失望、ふいに訪れる幻覚、父さんが死んでからまとわり続ける黒いものが漫画を読んでいる時だけは消えてくれた。救われたという確かな感触。
大きく息を吐いて、漫画雑誌を机に置く。
もし、もしも漫画家になって僕の作品を読んだ人が今の僕と同じ気持ちになってくれたなら、父さんの、誰かの想いじゃなくて、自分自身の内から湧き出た想いを実現することが出来たなら―――その時は自分のことを好きになれるんじゃないだろうか?
ペンを掴む。僕は自分で自分を誇りに思えるように頑張ろう。そう、今決めた。
「はあーーー」
実家を追い出されて、一人暮らしを始めた貧乏アパートの一室。スマートフォンを投げ出し、大きなため息をついて床に寝転がる。漫画賞に応募して六か月が過ぎたが、今日もメールは来なかった。
薄汚れた天井をぼんやりと眺める。
僕は、あの日から少しでも前に進めているんだろうか?
漫画賞に応募しても一次選考を通過することができない。高校のクラスメイトがキャンパスライフを謳歌―高校のクラスメイトは僕を除いて一流大学への進学を果たしていた―しているであろうに対し、僕はコンビニのアルバイトで生活費を稼いで誰にも読まれることのない漫画を描く日々。
青い春と黒い春。同じ高校をでてもこんなに違うのか……。
頭を振って嫌な考えを追い出して体を起こす。このまま家にいると黒いものに支配されそうな気がしたので気分転換と夕食の買い物を兼ねて外にでることにした。
平日の昼下がり。人もまばらな商店街を歩いていると、前から母校の制服を着た男三人がこちらに向かって歩いてくるのが目に入り、慌てて近くのコンビニに駆け込む。サッカー部は一年の時に辞めたので僕のことを覚えている後輩はいないはずだった。頭ではそう分かっていても、今の自分が母校の後輩と会うことには抵抗があった。
彼らが通り過ぎるまで時間を潰すために適当に漫画雑誌を手に取ってパラパラとページをめくる。手を止めて開いたページには漫画賞で大賞を受賞した若手漫画家のインタビューが掲載されていた。
インタビュアー:それでは小田さん。最後にデビューを目指している漫画家の卵にメッセージをお願いします。
小田:そうですね。僕もデビューしてからプロデビューするにはどうしたらいいですかと質問を受けることが何回かあったんですが、僕の答えは一つです。それは本気になることです。
インタビュアー:本気になること、ですか?
小田:ええ。プロデビューできなくて悩んでいるという人から相談を受けることがあるんですけど、よく話を聞いてみたら全然本気になってないんですよ。作品を描いて賞に応募しても落とされてしまう。じゃあ、何かしてるのって聞いたら、何もしてないって言うんですよ。作品を描いてるだけだって。それじゃあダメでしょ。応募する前に他の人に見てもらって意見をもらうとかちょっと考えれば作品をよくする方法なんていくらでもでてくると思うんですよ。でもその人はそれをしないんですよ。何故か?余裕があるから、つまり本気になってないからです。
『己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった』
山月記の一節なんですけども、プロになりたくてなれない人って、この山月記の主人公みたいに色々と理由をつけてやるべきことをやってない人だと思うんですよ。プロの漫画家を目指していてこのインタビューを読んでいる人にはそうなって欲しくないですね。
本気になってください。本気で努力してください。そうすれば絶体道は開けます。
インタビュアー:小田さん、本日はありがとうございます。
鼓動が高鳴る。喉がひどく渇いて目がチカチカする。雑誌を持つ手が震え始める。
「ふざけるな!」
次の瞬間には叫んでいた。力の限り、目一杯腹の底から。ここ最近で一番、いや生まれてから一番だったかもしれない。顔を上げると母校の後輩が驚きの表情でこちらを見つめていた。もはや、そんなことはどうでもいい。
小田、お前は僕を侮辱した。お前の心ない無知な言葉が僕の言葉を傷つけた。
OK。僕の本気をお前に見せてやる。
初めて訪れた公園のベンチに腰かけてどれくらい経っただろうか?腕時計を確認すると、時計の針は三時を指し示していた。五月といえども深夜の三時だとTシャツ一枚では少し肌寒く感じる。
大きく息を吐いて、これから行うことを頭の中でイメージする。
小田の漫画『ツーピース』を例え一瞬であろうともこの世から消滅させる。その孤独な闘いの第一弾として、デイリーシバタ限定で販売されているツーピースのウエハースの一つに毒を注入して、毒入り注意と書いたメモを貼り付けた。ツーピースの発行元である講英社にツーピースの販売中止を要求する脅迫状を送付した。ウエハースの販売は中止されたものの、講英社からコミックス販売中止の発表はなかった。
それならばと、大手書店チェーンにツーピースの販売中止を要求する脅迫状を送り付けた。要求が受け入れられなかった場合、店舗に火をつけると脅し文句を添えて。脅迫状を送り付けた三大チェーンの内二つは要求を受け入れたものの、一つは要求をはねつけた。はね付けたチェーンの店舗の一つにこれから火をつけにいく。
販売中止に従わなかったチェーンの店舗に放火されたと知ったら、小田はどういう反応をするだろうか?毒入りウエハース事件の後、小田は週刊漫画雑誌のコメントで『どんな脅しにも屈することなく漫画を描き続ける』と記して多くの称賛を集めていた。勇ましいコメントを発表した小田も脅迫犯が実際に放火するなんて思ってないだろう。
見てろよ、小田。これが俺の本気だ。俺の本気で必ずお前を屈服させてやる。
決意を新たに目的の店舗に向かう。俺の本気を小田と世間に示すために―――。
初めて訪れた幕張の街。今日幕張メッセで『ツーピースフェス』と銘打たれた、ツーピース記念イベントが開催される。幕張の街にはツーピースグッズを身に着けた少年少女が楽しそうな笑顔を浮かべていた。目の前にいる少年少女にとってツーピースの原作者である小田は神にも等しい存在だろう。
そう想像しただけで目の前にいる少年少女に襲い掛かりたくなるような衝動に駆られる。必死の想いで衝動を飲みこんで気を落ち着かせる。慌てるな、まだ早い。自分に言い聞かせる。
幕張に着いたら毒ガスを発生させる場所の下見をするために真っ直ぐに会場である幕張メッセに向かうつもりだったが、予定を変更して途中にあったコンビニに立ち寄ることにする。
ツーピースとコラボ中のコンビニは入口のノボリ、限定商品、店内放送とツーピース一色だった。
あの日、偶然小田のインタビュー記事を見てから一年。毒入りウエハース、書店への放火。ウエハースの販売中止、特定店舗でのコミックス販売中止と小さな勝利を得ることは出来ていたが、本来の目的であるツーピースの連載中止はまだまだ遠かった。
一年でツーピースは国民的漫画となり、僕は未だに底辺を這いつくばっている。差は広がるばかり。だが、その差は今日でなくなる。なくしてみせる。例え漫画を描いたとしても誰にも読まれないという僕と同じ状況に小田を追い込んでみせる!
小田!例え、自分がいくら本気で頑張ろうが外部要因でどうにもならない事があるってことをお前に教えてやるよ!
コンビニを出て、会場である幕張メッセに向かおうとする。しばらく行ったところで後ろから肩を掴まれる。慌てて振り向くと黒いスーツ姿の四十くらいの男が立っていた。
「すいません。警察ですがちょっといいですか?」
男は背広の内ポケットから警察手帳を取り出してこちらに見せる。
「な、何ですか?」
声がひどくかすれる。我ながら間の抜けた話だと思うが、トイレで毒ガスを生成した後に捕まることは想像できても、生成する前に捕まることは想像できていなかった。書店に放火までしているのだから、警備が厳重になることくらい容易に想像できたはずなのに―――。
「実は今日幕張メッセで開催されるイベントに脅迫状が届いてましてね。我々はその犯人を捜してるんですよ」
「そ、そうなんですか」
「ですので、あなたにちょっとお話をお伺いしたいなと思いまして」
「なんで僕―――」
言い終わらない内に、有無を言わさずに人気のない所へと引きずられていく。今までどこにいたのか七人の男女に取り囲まれていた。
「さっき脅迫状が届いたって話をしましたけど、その脅迫状はここの隣町のポストに投函されてましてね。で、防犯カメラに映ってたわけですよ、脅迫状を投函したと思われる犯人がアナタが今背負っているリュックと一緒にね」
唇をなめる。届かなかった。人生で初めて本気になっても―――。
「リュックの中身見せてもらえますか?毒ガスを生成するための道具が入っていると思いますけど……」
小田。アンタの勝ちだよ。俺は―――。
「―――負けました」
懲役十年の判決を受け、刑務所に入って半年が過ぎた。実家にいた時は寝る場所と食事には困らなかったものの僕を自分の欲望を満たすための道具としか思っていなかった両親のせいで精神的な安寧とは無縁だった。実家を出てからはずっと経済的困窮を抱え、三食食べることは稀だった。ずっと塀の外の世界では地獄のような生活を送っていた僕にとって塀の中の生活は天国のようなものだった。
やる事が決められている規則正しい生活、何をすべきかなど考える必要などなく、一日の終わりに何も出来なかった自分に劣等感を感じる必要もない。三食が保証されていて、寝る場所も確保されている。
十年。十年、か。十年はここで精神的にも肉体的にも安寧した生活を送ることができる。でも十年経ったら外の世界へ戻っていかなくちゃいけない。何もない世界へと。待っている人もおらず、そこには絶望しかなかった。
「アキトシさん」
作業のない休日。娯楽室のテーブルについて一人頬杖をついてぼおっとしていると同じ受刑者の木村さんに声をかけられた。同じ苗字だからか誰とも打ち明けようとしない僕に対しても気さくに声をかけてくれた。
「はい?」
「アキトシさんもこっちで一緒に将棋やりませんか?」
見ると何人かの受刑者が将棋板を挟んで向かいあっていた。将棋か。あまり指したことはなかったけど、ルールくらいは知っていた。一人ぼおっとしているならば、将棋を指した方が気分転換にもなるだろう。でも―――。
「いや、僕なんかいいですよ」
口からは自然と断りの言葉がでていた。こちらの反応は予想されていたものだったのか苦笑を浮かべて向かいの椅子に腰を下ろす。
「アキトシさんは否定的な物言いが多いですよね」
木村さんの言葉に眉をひそめる。否定的?分からなかった。
「そうですかね?」
「アキトシさん、私が何の罪で捕まったか分かりますか?」
目の前にいる人物をじっと見つめる。年は四十前半だろうか?目尻が下がった目は人懐っこい笑顔と合わさって、きっと穏やかな人なんだろうという印象を抱かせた。もしここに入る前に会ったとしても将来塀の中に入る人だとは夢にも思わないだろう。
「ちょっと分からないですね。木村さんがここにいることが不思議な感じがします」
「そうですか」顎をさする。「実は私は詐欺師でしてね。多くの人を騙して優雅な暮らしを送ってきたんですが、ちょっとどじってしまいまして、こうして刑務所送りになってしまったわけです」
「詐欺師……」
不思議なもので、そう聞くとさっきまで見えていた人懐っこい笑顔が必要に応じて身に着けた仮面のように思えてきた。
「ですので、職業柄、まあ人におおっぴらに言える職業ではないですけどね。人を見ることに関しては自信があるんですよ。ここでアキトシさんに問題です。騙されやすい人間、つまり私のような詐欺師にとってカモと言える人間はどんな人間だと思いますか?」
「警戒心のない人、ですか?」
「うーん、確かにそういう人はこちらの言うことをちゃんと聞いてはくれるでしょうけど、商品を買ってくれるかどうかはまた別ですからねえ。カモと言える人間ではないですね」
「そうですか……。そうなると、ちょっと分からないですね」
「ヒントはアキトシさんのような人です」
「私、ですか?」
自分を指さすと「ええ」と深く頷く。
「もし私がアキトシさんと外の世界で会うことがあって、少し話をする機会があったのなら『ああ、いいカモが見つかったな』って思いますよ、多分」
思わず唾を飲みこんでいた。木村さんの視線に心の奥底まで見透かされているように思えてひどく居心地が悪くなる、。
「それは……」絞り出すように言葉を吐き出す。「他人に対してひどい劣等感を感じている人間ですか?」
「半分正解で半分外れってとこですね。劣等感を抱えている人もいるでしょうけど、もっと根っ子の話です」
「根っ子……」
「少し失礼かもしれませんが、アキトシさんはご両親に褒められたことないんじゃないですか?」
「褒められる……」
父さんからは常に上手くできたことよりも上手くできなかったことを指摘され怒られてきた。母さんからはお前は醜いと罵倒され続けてきた。
「確かに褒められたことはないですね。でもそれって珍しいことじゃ―――」
「珍しいことなんですよ。一度も両親に褒められたことがないっていうのは」
「えっ……」
「程度の差こそあれ、普通の子供は両親に褒められた経験があるものなんですよ。山田さんと秋山さん、子供の頃に両親に褒められたことってあります?」
木村さんの言葉に将棋を指していた二人の男が顔を上げる。
「ああ、あるよ。ばばあが買い物に行ってる時にちゃんと弟の面倒見てたってな」
「俺はサッカーの練習試合で点決めた時に親父がめっちゃ褒めてくれたな。たかが練習試合で大差で負けた試合だってのに」
僕は大会の決勝で優勝を決める得点を決めたにも関わらず褒められたことはなかった。
「ね?」
木村さんの顔をまじまじと見つめる。
「ちなみに私もあります。小学校の時、テストで一〇〇点取ったっていう小さなやつですけどね。母はすごい喜んで褒めてくれましたよ」
僕は中学で学年一位になっても母さんは何も言ってくれなかった。
「こんな刑務所に辿り着いてしまうような人間にも褒められた経験はあるんですよ」
何だこの差は?言いようのない怒りがこみ上げてきた。、
「アキトシさんのような人間、両親に褒められたことのない人間っていうのはある特徴を示すんですよ。私の経験上必ずと言ってもいい」
「な、何ですかそれは」
ずっと苦しんできた。物心ついた時からずっと。両親から離れれば、環境を変えればこの苦しみは消えるんじゃないかと淡い期待を抱いたこともあった。でも一人暮らしを始めても苦しみは空気のようにまとわり続けた。
「不安です。ひどい不安を抱えている」
「不安……」
「私が言っているのは試験に合格できるのかな、上司の期待に応えられるのかなっていうちっぽけな不安じゃないですよ。もっと大きな、自分はここにいていいのかなっていう存在そのものに対しての不安です」
消えてしまいたい、消えれば楽になれるのかな。何度そう思ったことだろう。
「普通の人は……そうは思わないんですか?」
木村さんの言葉は穏やかで優しかった。
「残念ながらね」
「そ、その……僕のような、ひどい不安を抱えた人間は、どうしてカモなんですか?」
「ひどい不安を抱えている人間っていうのは、例えるなら地に足がついていない人間みたいなものなんですよ」
宇宙空間で子供のようにはしゃぐ宇宙飛行士がイメージされた。
「こう言うと、軽快そうでいいじゃないかなんて思う人もいるんですけど、地に足がついていないってことはひどく不安定ってことです。地に足がついている人間ならちょっと踏ん張って耐えられるような衝撃でも、地に足がついていない人間はたやすく弾き飛ばされてしまう。そして心のどこかでそれが分かってる。だから不安になる。砂漠を水なしで歩いている人間には簡単に水が売れるように、地に足がついてない人間には地面につなぎ止める糸を作ってやればいい」
「その糸があれば、不安は消えるんですか?」
「一時的には、ですね。風邪の特効薬がないようにひどい不安にもない。風邪はしっかりと休養を取れば治りますが、ひどい不安は休養を取っても治らないという違いはありますけどね」
「一時的……」
「私が手掛けた案件にこんなものがあります。登場人物は二人。
一人は三十前半の男性。厳格な両親のもと一切の娯楽を禁止されて、ひたすら勉強の日々。そのかいあって一流大学、国家公務員と世間一般でいうところの成功を収めたものの、仕事以外の時間の使い方を知らずに得体の知れない空虚さを抱えていた。
もう一人は十代後半の少女。共働きの両親は朝から晩まで働き詰めで、少女は一人でずっとアニメを見て過ごしていた。アニメを見ている時だけは一人ぼっちという寂しさを忘れることができた。少女はいつしかアニメの世界で仕事をすること、声優になることを目指すようになります。
私はこの二人を引き合わせてそれぞれに与えたわけです。男性には声優を目指す少女を応援するパトロンという糸を、少女には資金援助してくれるスポンサーを。あっ、声優と言っても今の声優はイベントとかで人前にでることも多くて、その時の衣装は自分で用意しなくちゃいけないらしくて、色々とお金がかかるみたいなんですよ。自分で言うのも何ですが、二人はいい関係を築いていたと思いますよ。ある時まではね」
一時的という言葉が頭をよぎる。
「二人は結局、どうなったんですか?」
「少女が結婚して声優をやめると言いだして男性は逆上。激情に駆られたまま少女を殺害してしまい、無期懲役の判決が下されました。自分勝手で身勝手な犯行と断罪されたわけですが、彼は裁判所でこう叫んだらしいです。『アイツが俺を殺したんだ。だから俺はアイツを殺した。これは正当防衛だ』ってね。多分、多くの人は彼が何を言っているのか分からなかったと思いますが、私には分かりました。少女が夢を終わりにしようとしたから、夢を追う少女を応援している自分という地面につなぎ止める糸が切られてしまったことを言いたかったんだとね」
ああ。あの日、小田さんのインタビュー記事を見て、それまで全く意識してこなかった彼に対して、何で何の見返りもない無謀で孤独な闘いを始めてしまったのかがやっと分かった。
『自分は漫画に救われました。だから、僕は僕と同じような境遇の人のために漫画家になろうと思いました』
必死の想いで作り上げた地面と繋がっていた糸は小田さんによって切られてしまった。それは僕にとって、僕という全存在を否定されたに等しく、そのことに怒り、全存在を賭けて小田さんに闘いを挑んだのだった。例え、アリが巨象に挑むようなものだったとしても―――。
「ハ、ハハ、ハハハハハ」
渇いた笑いが漏れ、気付いた時には泣いていた。原因は分かった。でも遅かった。もう僕は全てを失った後だったんだから。
プロの漫画家になって僕と同じように苦しんでいる人を救えるような作品を作る。
本当にそう思っていたのか、それともそう思おうとしていただけなのか?心の片隅でくすぶり続けながらも、ずっと気付かない振りをし続けてきた問い。これから最期の時を迎えようとしている今になっても答えはでない。でも一つだけ確実に言えることがある。それは漫画に救われたという事。
自分のことにしか興味がない両親のせいで”自分”を創ることができないまま二十歳を迎えてしまった僕が自分を創ろうと必死にもがき続けた一年間。その中心には漫画があった。
その必死の努力もたった一人のスーパーマンのせいで粉々に破壊されてしまった。僕はあまりにちっぽけで敵はあまりに巨大だった。敵う相手じゃないのは、いくら馬鹿な僕でも分かっていたが黙っていることはできなかった。彼の作品は国民的な漫画となり、街を歩けば嫌でも目に入ってきた。二十年間ずっと苦しみ続けてきた僕にはこれからも穏やかに暮らすことは許されないのかと怒り、全身全霊をかけて闘い、そして敗れた。
何でそんな闘いを始めてしまったのか、原因は分かった。でも全てが遅かった。僕は僕という存在も含めて全てを失い、傷つき、疲れすぎていた。残された選択肢はただ一つだけ。静かにこの世から立ち去ること。何度も頭に思い浮かんでは実行できずにいたが、もうためらう理由は何もない。
劣悪な両親の元で産まれてしまったという誤りをただ戻すだけ。
息を大きく吐いて、ポケットから僕を救ってくれる錠剤を取り出す。じっと見つめた後、迷うことなく口へと放り込む。
―――さようなら。
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