5 嗚呼……平凡なるバレンタインよ、さらば。

 朝起きると……猫から元に戻っていた。

 まだ眠そうな椿の顔が、ここ最近だと嫌に大きく見えたが小さく見えて。体に違和感あるなぁと思って下を見たら素っ裸だった。そういえば、そうだ、子猫病って服のサイズが合わなくなるんだから。椿も戻った時は裸だったしな――あぁ今は思い出すのは止めておこう。

 とりあえず、隣で寝ていた椿を起こさないようにベッドから出て、服を着て戻ると起きた椿が酷い寝ぐせ付けたまんまで出て来た。


「三春! 戻ったんやね!」


 地元の方言が出てきた時はだいぶ焦ってる時だ。そんなにベッドから抜けた事がおかしかったんだろうか。

 だが久しぶりに花が咲いたような……という表現で合ってるか分からないが、嬉しそうな椿の顔を見下ろす形になって俺としちゃ新鮮な気分だった。そういえばこんな感じだったか。

 椿からも、他の奴からも「ひょろ長いよな」とからかい混じりで言われた事を思い出す。

「なんでそんなに慌ててるんだ?」

「だって猫の足音やなくて、人間の足音やもん。驚きもするね」

 あぁ、そりゃそうか。不審者だと考えたら驚きもするか。

「悪かった、俺裸だったし起こしていいか分からなくてな」

「別にえーやん、もう見てるし」

「いやー……気分的な問題だぞ、こういうの」

 椿はこざっぱりした女だったから良いかもしれんが、俺はと言えばパジャマの隣で裸はなんだかあべこべな気がして気になる。

「とりあえず、会社に連絡しないと……あー、仕事出来るかな」

「なんかあったら、私車飛ばすけんね、三春」

「ありがとよ」


        *


「仕事、結構溜まってますよ」

「納期は?」

「営業の若い奴が交渉してますけど、あんま期待しない方が良いです。たぶん押し切られて、部長が雷落とすかと」

 後輩の中島が苦く笑って見せた。少しの間見なかっただけなのに、酷くやつれてる気がする。入ってすぐの営業は仕事の取って来かたが下手くそだし、早いとこ慣れていって欲しいもんだ。苦労するのは発注かけて回す俺らだぞ。

「とにかく、工場に連絡。リャオさん出してくれってひたすら頼め。日本語出来る人があの人とヤンさんくらいだしな」

「それがー……」

「どした」

 訊き返しはしたものの、言い淀んだ中島に嫌な予感がした。

「リャオさん、バックレたらしいです。さっきの若い奴が押し切られて、それ隠そうとして仕事回すのが遅れた挙句に、部長がカンカンになって……それの尻拭いを全部あっちにさせようと急かしたから」

 開いた口が閉じなかった。最悪のケースだ……あんのパワハラクソ部長め、国際問題に発展しないかもしれないがな、会社間での取引は大問題だぞこの野郎……そんなんだから奥さんと子供に逃げられるんだ。

「だから、船は無理です。生産量的に飛行機の便を飛ばしても荷物間に合わないです……」

「……中島、A社に連絡。俺はB社。在庫の確認して貰って材料の確保。中身さえどうにかなれば外はこっちで仕上げられる。発注書は右端のパソコンにまとめてデータが入ってるから事務の子達二人くらい回して貰ってくれ、マニュアルはエンジニア部の須崎さんが持ってる」

「部長はどうします?」

「……俺が説明するよ」

 復帰したばっかりで問題が山積みだ。こりゃあ五月病なんかにかかってる暇も無さそうだった。


     *


『って訳ですまん椿、終わるのは……たぶん十一時くらいになる』

「終電もう終わってるよね、迎えに行こうか?」

『いやいい、ホテル取った。どうせ朝っぱらから違うとこ行かなきゃいけないしな』

 電話越しに聞こえてる声は今日一日で随分とやつれてしまっているようだった。バタバタと後ろではドアが閉じたり開いたりする音が聞こえてる。

「大変そうやね」

『悪いな、戻ったばっかりなのに』

「うぅん、えぇよ。無理せんといてね」

『あぁ』

『立花さーん! ドライバーさん出発させて大丈夫ですかー!?』

 三春の声じゃない、若い男の人の声が聞こえて来た。

『……悪い、行かないと』

「うん、何か合ったら、また連絡して」

『おう』

 通話が切れて話している時間が表示される。一分ちょいくらい。今日話したのは、朝の会話とこの電話くらい。

 テーブルの上には、寂しく放って置かれたチョコレートが乗っかっている。暖房が回り始めてるから、早めに食べた方が良いだろう。美味しいと噂だった。自分用に買って、三春用のは冷蔵庫にしまってある。手作りなんて、久しくして無かったから失敗したくなかったし。

 それでも食べる気が起きなかったのは、二人でゆっくりしたかったからかもしれない。

「現実は上手くいかないもんだなぁ……」

 ころりとチョコを転がしてみるけど食べる気はやっぱり起きなくて、私は蓋をした。バレンタインデーよ、さらば。でもきっと、三春はイベントはあまり気にしないし、きっと美味しく食べてくれる。


「頑張れ、三春」

 私は声に出した。今この場に居ない三春に届いてくれないかと願って。私も納品する仕事を仕上げなきゃな、と軽く伸びをしてパソコンに向かう事にした。

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