第十一章 湯女無惨 ⑦

 宵闇が迫る頃が、湯屋のかき入れ時である。仕事を終えて汗を流す客が、まとめてやってくる。明かりにつかう油も安くはなかったため、慌ただしく体を洗って、入れ替わり立ち替わり湯船につかる。昼間と違い、湯女も落ち着かない。垢すりをじっくりしてやるゆとりはないため、背中を軽く流す程度で多くの客をさばいていく。いつもは艶めいた態度のお志乃も、この時間帯は他の湯女と変わらなかった。


 湯を沸かしていた火を落とせば、二階の座敷の客も外に出される。客が出払った後は、三助や湯女が出てくる。お志乃が世話になっている湯屋には、三助がいなかった。暗がりは何かと物騒である。どの湯女も足早に帰っていく。お志乃も同じように家路を急いだ。もっとも、忍びとして夜目が利くため、他の湯女のように夜道を恐れてはいない。


 この時代、街灯があるわけでもないため、少し狭い路地に入ればほとんど闇である。お志乃の耳は、自分の後ろから複数の足音がついてくることに気づいていた。その足音から逃れようとするといつのまにか聞こえなくなり、別の方向から足音が聞こえてくる。いつの間にか潮の香りが強くなった。峯津港の貯木場である。積み上げられた弁甲材の山を背にしたお志乃は周囲を男たちから囲まれていた。誰一人声を出さず、何か重たげなものを手にしている。


 左右に立つ二人が、手にしたものを振り回した。風を切る音がして何か飛んでくる。気配で躱すと、背後の材木からにぶい音がした。石礫のようだ。正面の男が振りかぶって打ち込んできた。時間差で右前方から逆袈裟に踏み込んでくる。頭を庇って、逆袈裟をくらった。あばらのきしむ音がする。棍棒ではない。何か柔らかくて重いものだ。手にした匕首で振り払うと、目に砂が入った。砂を詰めた袋で殴っているのだ。


 間断なく攻められて、やり返す隙がない。材木の山に跳躍し逃れようとした。いや跳躍したまではよかったが、材木の山に飛び移った直後、目を優しく覆った大きな掌にしっかり捉えられ、盆の窪にちくりと感じた痛みだけが、最後の記憶となった。

「詫びの言葉など、いらぬ。成仏せず無間地獄をさまようがいい」

お志乃の亡骸を軽々と持ち上げた安針は、材木の山から投げ落とした。黒田屋の衆がいる側とは逆方向だ。岸壁に打ち寄せる波の中に、お志乃は沈んだ。


 翌朝、全身を殴られたお志乃の死体が、港で発見された。湯屋で多くの男と浮き名を流した女である。受けた恨みも多かったであろうというのが大方の判断であった。町方の検分もそこそこに、無縁仏として処理されたのは言うまでもない。


* * * * * * * * * *


 午前中の施術を終えた診療所に、またまた猪上が押しかけていた。恨みを買って殺されたお志乃の話を、わざわざ知らせに来たらしい。自分が成敗できなかったことが、よほど悔しかったと見える。

「あれはまさしく『天罰』じゃな」

「猪上様が手を下さずともようございましたね。あんな女は、かえってお刀を穢してしまいそうで・・・・・・」

我が意を得たりとうなずく猪上。そこにやって来たのが、黒田屋の手代・佐吉である。

「佐吉、腕の調子はどうだい? 無理はしてないかね?」

鳶をしていたころに痛めた腕を、定期的に診てやっているのだ。

「今回は、ひさしぶりだから念入りに施術してやろう。猪上様、申し訳ございませぬが、そろそろ・・・・・・」

機嫌のいい猪上は、これはしたりといった顔で

「おお、すまぬな。佐吉もしっかり診てもらうといい」

と言い残し、帰っていった。


 足音が遠ざかり、聞こえなくなったのを確かめると、佐吉が口を開いた。

「こたびは殴らせただけで、殺しをさせたわけではございませぬ。心を病んでしまう者は、幸いなことに一人もおりませぬ」

「そいつは良かった。何よりだ。後味の悪いこんな『始末』など、若い者に最後までさせてはいけないよ」

「安針先生、それだといつまでも先生だけが・・・・・・」

「いいんだよ。こんな『始末』をたくさんの者が手がけていたら、それこそ公儀にも分かってしまう。少なければ少ないほどいいのさ。ほら、奥で横になりなさい。念入りに診てあげよう」

指圧から鍼、そして灸と、安針の施術のフルコースが始まった。逆袈裟の動きは良かったが、匕首を振るわれて尻餅をついた拍子についたのは、昔痛めた方の左手だった。念には念を入れて診てやらないと、黒田屋の商いに差し障りが出てしまう。少々痛い思いをするかもしれないが、そこはこらえてもらうことにした。

「おお、先生そこはもそっと優しく!」

「はいはい、ここ我慢だよ! はい力を抜いて、よしできた。次は鍼だよ。鍼の次は熱い灸を馳走してあげようね」


 この一件以来、湯屋で働くのは、三助ばかりとなった。猪上のところに来ていた薬屋も、病の重くなった奥方が亡くなって以来、足が遠のいた。普請の少なくなった猪上は、他藩の材木商に声を掛け、いわゆる銘木に手を出すようになったそうな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る