第十一章 湯女無惨 ④

 黒田屋に連絡すれば、翌日には誰かが診療所に来る。安針は夕食もとらずに部屋に籠もった。結跏趺坐したうえで、自身に重感暗示と温感暗示をかける。余計な力を抜き血行が良くなった。さらに呼吸を整え意識を落とし込む。黒く渦巻く流れに吸い込まれた安針の意識は、ふいに何もない空間に浮いた。先ほどの男を思い出し、目の前に映し出す。男に視点を固定したまま、安針は自分の意識を「引」いた。


 男の「時間」が巻き戻されていく。ぬめるような柔肌とまぐわう男。果てても果てても、まとわりつく柔らかな体が男の精を絞り上げる。恍惚とした表情の男を冷静に観察する女。おそらくこの女が志乃だろう。切れ長の目元が、安針の前世の妻によく似ている。体を売る湯女にしては、手練手管が達者に過ぎた。左の内股に、青みがかった紫色の入れ墨が見てとれる。紫陽花だ。それを見せつけるように、志乃は男を挑発する。


 安針は、志乃に視点を固定して、さらに意識を「引」いた。左の内股にあった入れ墨が記憶に残る。志乃の動きが巻き戻される中、紫陽花の花言葉である「冷酷」と「移り気」が、聞こえてくる。前世の妻と同じだ。長崎の生まれであることも一緒だった。貧しい漁師の家に生まれ、半ばほったらかしで育てられたがすぐに人買いに出される。そこそこの器量だったのだ。だが買われた理由は、遊女としてではない。


 天領つまり幕府の直轄地であった長崎は、九州全体を監視する公儀の要(かなめ)の地でもあった。さまざまな仕事を装って、各藩に忍びが潜入しているようだ。長崎でまとめられた情報は江戸に向かっている。伊納藩に入り込んでいるのは、薬売りと湯女が多い。湯女は、もともと遊女だった者が充てられた。他にもいろいろあったようだが、志乃の素性を追いかける安針は、余計な情報を無視することにした。


 志乃は、いわゆる「くの一」だった。薬と性技で男を骨抜きにして話を聞き出す忍びである。体を鍛練していることがばれないように、筋肉は最小限にとどめてあった。その代わり、さまざまな暗器(隠し武器)や毒を使った体術は身につけていた。そのあたりは、伊賀の忍びらしい鍛え方である。肉体自体を鍛えることの多い甲賀とは、対照的だった。志乃の得意な暗器や毒を確かめた上で、安針は自らの意識を現実に戻した。


* * * * * * * * * *


 まずは、お志乃の動きを牽制するところから始まった。湯女に垢すりを頼んだ後、自分の下半身の世話まで頼むのは決まって若い衆である。その若い衆に、垢すりですっきりした後、仕立て直した古着をいくつか試着してもらったのだ。黒田屋の商売の一環で、まずは浴衣の柄合わせを宣伝し、粋な男振りを競わせるよう煽ってみたのだ。お志乃以外の、以前からいる湯女にも協力を依頼し、どの柄がいいのか湯屋で吹聴してもらった。


 風紀の乱れも防ぐこの方法は、黒田屋の売り上げにも貢献した。黒田屋は、湯女の使う湯着にも手を伸ばした。湯女だって着飾りたいものだ。チャイナ服に見られるスリットをつけたりなどして、少しだけ色気を強調するものも作った。男女で裸のお付き合いがしたいなら、湯屋の二階で口説いた上で外に出ろというわけである。周囲の目がある以上、よろしくやった後、行方不明になるなんて不始末は起こせない。よそから入って攪乱したい者にとっては、やりにくい雰囲気になったわけだ。


 ところがお志乃は、狙いを同じ湯女に切り替えてきた。男だけでなく、女相手でも歓びを覚えるたちだったらしい。垢すりをしている他の湯女の尻を撫で上げたり、湯着の裾をちょいとめくり上げたりして、艶っぽい雰囲気を作ることが増えた。お志乃の性技でいいなりにさせられた湯女は、垢すりをしている男たちに横から手を出すお志乃に何も言わなかった。むしろ喜んで、三人での営みを楽しんだのである。


 垢すりの場所での嬌声は、さすがに湯屋の主も腹を立てた。三助のいる湯屋と比べられ、風紀の乱れをお上に指導されることの増えた昨今、湯女への締め付けも増えるというものだ。だが締め付けが厳しくなるほど男女の営みは淫靡になっていく。お志乃のやり方についていけなかったり、元よりそうした男女の色事と縁の薄かった湯女は、少しずつ湯屋を辞めていった。かつて安針に相談していたお吟も、辞めていった一人である。


 残った者たちは、当然のことだが白い目で見られることになる。ふしだらな女として居場所をなくすと、黒田屋から別の仕事を斡旋してもらえない。そうした女たちを率いる形となったお志乃が、とうとう動き始めた。最初は黒田屋の衆を狙ったが、逆に湯着を勧められた。まっとうな垢すりだけならさせてもらえる。垢すりだけでも暮らしていけるはずなので、そのまま落ち着いてくれればそれでよかった。

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