第十一章 湯女無惨 ③

 三助の導入や指圧のできる湯女の育成など、藩の風紀はずいぶんと改善されてきた。他藩と経済的な結びつきを強めるわけでもなく、伊納藩への警戒は弱くなったようにもみえる。公儀からの干渉は、少なくなった。だが、こうした揺さぶりを凌ぐこと自体に、関心を持たれなかったわけではない。風紀の乱れは江戸にもあった。九州の小藩にできて江戸でできないというのも、何かもやもやしたのだろう。公儀に情報を漏らすよう求められた猪上に、その辺の事情を探る指示が届いた。


 黒田屋が動いた結果であることは、猪上にも分かっていた。黒田屋を中心に、複数の名主が手を取り合っていることも知っている。だが、黒田屋の動きは、あくまで商いを充実させるためのものであって、それ以外の意図はないように見えた。黒鍬組の組頭として勤めながらの情報収集である。深いところまで探れというほうが無理な話だ。現藩主の伊納佑正(いのう・すけまさ)は、どちらかといえばのんびりとしている。藩政におけるさまざまな案件を処理しているのは、勘定奉行を中心とした優秀な家来たち。猪上はそう報告するしかなかった。


 猪上を隠密に仕立てた幕府の御庭番・賀茂十兵衛は、伊納藩の動きを注視する必要がないように感じていた。運河を軍事的に利用しているわけでもないし、経済的に飛躍しているわけでもない。むしろ隣藩に軽く見られ、藩の子どもを拐かされてもいる。無害な小藩と断じてもよさそうだ。今後は薬売りの行商を潜入させる程度でいいのではないか、十兵衛はそう考えた。密偵を放っているのは、他にもたくさんあるのだ。伊納藩だけにかまっているわけにはいかない。


 だが、今後とも猪上を使うにあたって、通り一遍の報告だけで済ませぬよう念押しする必要がある。勘定奉行と、その後ろ盾を受けているらしい黒田屋は、十兵衛の勘を刺激した。江戸の岡っ引きや下っ引きより、いい働きをしている。商いに結びつけてはいるものの、結果として藩の治安をよくしている。捨て駒でもかまわないから、今一度揺さぶりをかけてもよい・・・・・・。十兵衛は配下に命じ、下忍を潜り込ませることにした。その指示が、後に安針を苦しめることになる。


* * * * * * * * * *


 湯屋の混浴は、いまだにそのままだった。男湯と女湯を分けるほどの経済力がなかったのである。だが、城下の湯屋の多くは三助を雇うようになり、風紀の乱れは落ち着いてきた。問題なのは、港町の峯津である。運河の普請で集められた人足の多くは、漁師となった。鰹の一本釣りである。彼らが外海に出ている間は、まだ落ち着いている。だが戻ってくると、自分たちの稼ぎを一気に使い、弾けるように騒ぎ出す。峯津の湯屋にいるのは、湯女が多い。湯女は、陸に戻った漁師の相手をさせられているのだ。


 荒くれ者を相手にする湯女は、当然彼らの扱いにも慣れてくる。だが、いったん腕力にものをいわせれば、かなうはずもない。悪さをしても海に逃げれば捕まることはない。そうした意識が、若い漁師の気持ちを大きくしていた。町方が何もしなかったわけではない。だが多くの同心は世襲で、下っ引きの手当も自腹だ。下っ引き自身も、かつて罪を犯した者が多く、そうした後ろ暗い方面に詳しいため雇われている。この時代の犯罪は、基本的に「自分の身は自分で守れ」が原則なのだ。黒田屋の衆が情報を集め、さまざまな揉め事の仲を取ってくれるのは、実は珍しいことなのである。一部の下っ引きに黒田屋の手の者が入り込んでいたが、人手不足なのは確かだった。


 諍いは、やはり峯津で起きた。だがその諍いは、刃傷沙汰にはならなかった。姉御肌の湯女が、漁師を丸め込んだのである。例によってよそから流れてきたその女は、志乃と名乗った。黒田屋の衆からその名を聞いたとき、安針の心は、ちくりと傷んだ。前世つまり平成の世で、職場の同僚と浮気した元妻の名前だったのである。むろん、同じ名であるのは偶然だろう。偶然だが、いつものように探りを入れる気持ちにはなれなかった。いつもなら、湯屋でのんびり過ごすふりをしながら世間話をして、探り当てた情報を黒田屋で共有していたはずだ。


 患者の世話で忙しいという理由で関わり合わなかった安針に、黒田屋から報告があった。網元の権蔵からの相談だという。湯屋で諍いを起こした若い漁師の様子がおかしいというのだ。施術を早めに切り上げた安針は、駕籠を頼んで峯津に向かった。若いときのように歩いていくのは、少々辛くなってきている。

「安針先生、ご無沙汰しておりやす」

権蔵の髪にも、白いものが増えてきた。

「お前さんとこの若いのが、様子がおかしいって聞いたんだけど、そこのところ、どうなんだね?」

世間話を省いて、安針はいきなり本題に踏み込んだ。

「うちの若い者が暴れたって話はご存じでやすかね。そいつがすっかり大人しくなったんでさ」

「悪いことではないだろう」

「大人し過ぎるんですよ」

「大人し過ぎる?」

「家の中で気が抜けたように座り込んで、ろくに飯も食おうとしねえ。かといって熱があるわけでもねえから医者を呼ぶ理由もねえ。気になるんで、今うちで面倒を見ておりやす」

 今までの湯女とは、ずいぶん違うようだ。名前だけで避けてきたことを、安針はふと恥じる気持ちになった。始末屋として一肌脱ごうという気持ちにもなる。権蔵は、元気のなくなった漁師を診ることにした。一室に寝かされたその漁師は、穏やかというより惚けた表情で安針を見返した。

「お前の体の具合が気になるそうだ。網元の頼みということで、ちょっと診せてもらうよ」


 男をうつぶせにして、まずは指圧を始めた。体の各部に異常はない。異常はないが、経穴を押したときの反応がいい。いいというより、良過ぎる感じなのだ。仰向けになるよう指示した安針は、違和感の原因を目にした。男の下半身に、硬く突き上げるものが見えたのである。下帯を突き上げたそれは、明らかに女の柔肌を求めていた。気づかないふりをして、安針は話しかけた。

「湯女に、会ったんだってね」

 男の表情が、溶けるような笑顔になった。

「お志乃・・・・・・」

「お志乃っていうのかい? いい女なんだってね」

体の凝りをほぐし、落ち着かせた上で眠らせた安針は、権蔵に頼んで、若い衆を黒田屋に走らせた。その上で駕籠を頼み、準備を整えるため診療所へと帰っていった。

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