第十一章 湯女無惨 ②

 伊納藩の湯屋は、早くから湯船につかる形を取っていた。蒸し風呂の多かったこの時代、伊納杉の管理で枝払いをしたり間伐材を切り出したりと、薪が豊富だったためである。伊納杉関連の流通を通して、材木商・大工・湯屋・その他関連する職種と、経済の回る仕組みができあがっていた。そのため、湯屋も格安で利用できたのである。安針のような風呂好きが、朝っぱらから湯船につかっていられるのはこのためである。


 安針は、不惑の年を迎えていた。朝風呂に入って身を清め、午前の内に診療所での施術。午後は往診が中心だ。午後は慢性的な症状の患者が多いため、家族と話し込むことも少なくない。自然と相談に乗る形となるため、市中の噂話を拾ったり、時には晩飯のおかずをもらったりもする。年齢による落ち着きのためか、信頼も厚かった。その信頼は、湯女たちにとっても同じである。黒田屋の衆が聞き取りをしている湯女のうち、自分たちで判断できないと思われる分については、安針の朝風呂の時間帯に合わせるよう言い含めてある。この日は一人だけやってきた。


 一人来ると聞かされていた安針は、垢すりでも頼みながらの話だと思い込んでいた。だが、湯着を着ていない女が入ってきたため、少々慌てることになる。いろいろと見えてしまって目の毒ともいう。女は、吟と名乗った。

「お背中、流してもかまいませんでしょうか?」

湯船から上がると、お吟は安針の背中を流し始めた。

「できれば湯着があったほうが良かったんだが・・・・・・」

「背中を・・・・・・見て頂きたくて・・・・・・」

その声に振り返ると、お吟は安針に背を向けていた。右肩から左の脇腹にかけて、引き攣れたような痕がある。

「酷いな。それは・・・・・・」

「この傷をつけた男は、外海で行方が分からなくなったそうです」

漁師から、垢すりとその後の「世話」を強要された挙げ句の傷だという。男が報いを受けたとはいえ、傷が癒えるものでもない。


 お吟によれば、これほどの傷ではないにしても何らかの被害はあるとのこと。湯女を辞めた後にできることとして、新たに考える必要が出てきた。

「お吟、辛かったろう・・・・・・」

安針はお吟の手を取り、無意識のうちに指先で掌を押していた。掌を広げ、指圧をして指先を軽くつまむ。経穴をピンポイントで刺激できない者のために編み出された「ゾーンセラピー」だ。安針の前世では、医療費が高いため気軽に病院に行けない国の民間療法として活用されていた技能である。

「安針さま・・・・・・。体が熱くなってまいりました」

血行がよくなったのだろう。お吟の瞳が潤んできている。何だか余計な勘違いをしそうで、安針は思わず目を逸らした。

「私のような『傷物』など、所詮誰の相手にもされやしませんけど・・・・・・」

お互い裸である。掌を指圧しているため、安針の目の前には形の良い小振りの乳房がある。湯滴が乳首から一筋垂れるのが見えて、筋肉達磨の下半身まで「筋肉達磨」になった。目に見える変化に、お吟が気づかぬはずはない。背中の傷を恥じて、女の喜びを自ら捨てた身でもある。その後の二人が何をしたのか、詮索するのは「野暮」というものだろう。


 掌への指圧を覚えたお吟は、垢すり後に客を癒すこととなる。体を売るのではなく癒しを売るお吟は、湯女としてとりあえずの立ち位置を得ることになった。その話を聞いた他の湯女も、安針に相談を持ちかけることになる。毎回のようにお吟のような関係になるわけではないが、噂を気にした安針は、朝風呂を避けて診療所で相談を受けるようになった。大好きな朝風呂は、こうして叶わぬ夢となったわけである。


 不惑の年つまり四十の安針は、当時としては男の盛りを過ぎていた。朝風呂を辞めて、診療所で湯女の相談を受けるようになり、危うげな雰囲気になるのは減った。それでも全くなくなったわけではない。他の患者がいなくなる頃合いを見ては押しかける湯女もいて、安針の周りは一気に艶めいてきた。加えて、掌の指圧を覚えた湯女が増えると、湯屋の風紀も少しずつ改善されてきたのである。一部に体を売る湯女はいたが、そうしたやり取りで余計ないざこざが起きるのは、ずいぶんと少なくなった。

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