第十章 山椒は小粒で ⑤

 湯屋に、新しい湯女が入ってきた。お歯黒であるところから、一度は嫁入りしたと思われる。だが旦那の姿はなかったし、肌は抜けるように白く若々しかった。眉はほとんどなかったため、眉墨を引いても湯気で落ちてしまっていた。初音と名乗る湯女は、ひどく無口だったが、垢すりの際の力加減が評判を呼び、多くの男たちから指名されていた。


 湯女として遅くまで働いていると、当然気疲れする。たまの休みにゆっくりしたいとなれば、客の少ない朝風呂ということになろう。朝から垢すりを頼むような客は、ほとんどいなかった。垢すりを頼む客はいなかったが、御用第一の吉次郎は、大の朝風呂好きだったのである。初音と出くわすのは、時間の問題でしかなかった。朝、明るい湯殿で一緒になれば、夜と違って見えすぎるくらい見えてしまう。おたか一筋の吉次郎だ。見過ぎぬようにしてはいたが、同心としての観察力は、体つきの違和感を見抜いてしまった。


 手首が、太いのである。指を真っ直ぐそろえたときの幅と、手首の幅とが、ほぼ同じだった。湯女として垢すりを続けているとはいえ、手首の周りだけに筋肉がつくものではない。湯船を上がって立ち去る後ろ姿を見れば、歩き方自体に隙がない。ふくらはぎの筋肉がしっかりしているのも見て取れた。黙って会釈するだけの出会いだったが、吉次郎に警戒させるだけの情報は伝わってしまったわけである。


 翌日から、吉次郎の聞き込みが始まった。もちろん直接聞いて回るわけではない。朝風呂を夕方に替えて、湯上がりには湯屋の二階に上がるのである。周りの話に耳を傾けながら、垢すりの評判について話題を向ければ、新入りの初音の評判も聞こえてくる。垢すりの力加減はもとより、「さばけて話が分かる」と言う者も多かった。何の「話」が分かるのか、よほどの朴念仁でもなければ理解できる。そう言っているのは、例外なく若い男たちなのだ。初音は、男たちの下半身も世話しているらしい。


 湯女が自分の体を売ることは、黙認されていた。だが、湯屋の中でそのまま行為に及ぶ者もいるため、中を汚さぬよう、そのための場所が区切られていたし、そこに発生する料金の一部は、湯屋に収めることになっていた。だが、男たちの人数と、湯屋に収めた額とでは釣り合いが取れない。湯屋に確認を取り、きちんと申し立てをさせた上で、吉次郎は初音を呼ぶことにした。だが、初音は来なかった。怪しげな人物はいつも、いつの間にかいなくなる。たぶん、また「よそ者」だったのだろうということになった。


* * * * * * * * * *


 いなくなる「よそ者」の多くは、藩の西側にある山を越えて行くことが多かった。かつて子どもを拐かしていた者の多くがそうだったため、念のために関所付近の見回りを強化することになった。蜜柑作りで知られた、坂上村の辺りである。町方の者は、ほとんど駆り出されていた。吉次郎も例外ではない。先月から仲間入りした若い同心と組んで、蜜柑の木が植えられた斜面を登り、怪しい人影がないか探し回った。


 辺りが暗くなり始めたころ、若い同心が足がつったと言い出した。これだから若い者はと思いながら、その場で休めと言い置き、吉次郎はさらに探し続けた。収穫作業もそろそろ終わりである。木の世話をしている農家の衆も、一人、また一人と帰っていく。背負った籠が重そうだ。背を曲げた女が視界に入り、見過ごしそうになった吉次郎はもう一度振り返った。気になる。暗くなり始めていたが、籠にほとんど何も入っていないことが見てとれた。記憶に何かが引っかかっている気がした。女がのろのろと手を伸ばし、蜜柑をもぎ取ろうとする。その手首を見て、ふいに思い出した。

「おい、そこの女! ちょっと来い」


 女はゆっくりとこちらを向いた。曲がった背を少しだけ伸ばそうとしてうまくいかず、横によろめく。斜面で足元が危うくなると、そのまま下まで転げ落ちることがある。

「危ない!」

年寄りが怪我をするのではないかと思い、吉次郎は斜面の下で受け止めようと足を止めた。その刹那、女は猛然と斜面を駆け上がっていく。一呼吸遅れた吉治郎は、慌てて後を追った。宵闇が迫る山の中、追う者と追われる者は、次第に人里から離れていく。


 獣しか通らないような道で、吉治郎は女を見失った。やはり初音だったのだろうと確信していたが、その素性については見当がつかなかった。おそろしく足の速い女だ。これ以上は無理だと考え、戻ろうとする吉治郎のこめかみに、子どもの拳ほどの石が投げつけられた。気を失いそうになった吉治郎は、それでも使い慣れた鈎縄を探り当て、投げられた方向を向こうとした。走り寄る人影がわずか見える。

「は、初音か・・・・・・」

 逆手に持った匕首が迫る。吉治郎の鈎縄が飛ぶ。巻き付いた鈎縄を引き寄せ、匕首の動きを制して取り押さえようとした吉治の脇腹に、鈎縄の巻き付いていない方に持ち替えられた匕首が深々と差し込まれた。とっさに相手にしがみついた吉次郎は、そのまま一緒に倒れ込む。斜面が急だったため、もつれ合って転がる二人は、少し大きめの岩にぶつかって、ようやく止まった。


 打ち所が悪かったのだろう。二人とも事切れていた。二人の死体が発見されたのは、翌朝である。初音の懐からは、蜜柑が一つだけ見つかった。どうして蜜柑だったのか、町方でも分かる者はいなかった。かつて、何人かの子どもが拐かしにあった村である。女がもぎ取ったのは、三吉という男が世話する蜜柑だった。かつて、三吉の幼い妹「はつ」の行方が分からなくなった場所。「はつ」と「初音」に通じるものがあるなど、考えを巡らせる者はいなかった。この女が、どこでどのように鍛え、何を目的に入り込んでいたのか、まだ何もしていなかったがゆえ、全てなぞのまま終わってしまった。

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