第十章 山椒は小粒で ④

 安針の診療所には、さまざまな患者がやってくる。中には、具合が悪いわけでもないのに来る者もいる。同心の境吉次郎も、その一人だ。吉次郎は、安針に背中を押されるようにして、髪結のおたかと一緒になった。いつだったか朝風呂を共にしたときの会話で、同じ世代ながら安針の落ち着きに感じ入ったと見える。関節の可動域を広げ、捕り物で不手際がないよう体のメンテナンスに来ているのだ。吉次郎に付き従う治吉も、年を取った。昔のように体も動かない。そろそろ十手を返上しようかなどという話も出てきている。


 昼過ぎになって、ふらりとやってきた吉次郎が、外から声を掛けた。

「安針先生、おられるか」

受付代わりの爺さまもいなかったが、入り口はもとより開いている。中の障子がからりと開いて、安針が顔を出した。

「これは境様、指圧でございますかな」

軽くうなずいた吉次郎は、勝手知ったる座敷に上がり、腰の物を預けて羽織を脱ぎ、腹ばいになる。安針も慣れたもので、足首から順に上へ向かってほぐしていく。

「よく鍛えておられます。さすがですな・・・・・・。おや、ここはどうされたのですか?」

左のふくらはぎに、明らかにそれと分かる切り傷があった。傷口はしっかり塞がってはいるが、傷跡は残りそうな感じだ。


 うつぶせのまま、吉次郎が答えた。

「御用の筋でな、鈎縄をうまく使えなかったのだ。下手人を引き倒した後に外れてしもうてな、振り回した匕首で、ほれこのようにばっさり、というわけだ」

侍が振り回す剣術も、捕方の十手術も、互いに立っている状態で戦う技術だ。横たわって足元を狙うのは、薙刀くらいしかない。それに加え、吉次郎の鈎縄は、絡め取った後相手に体を寄せて制圧する。一歩間違えば、足の筋を切られて大変なことになったかもしれない。それでも吉次郎は、御用第一の暮らしを貫いていた。治安の要と言ってもよい。

「最初から刀を抜くというわけには・・・・・・」

「それはできぬ」

安針の言葉を遮っての即答だった。


 しばらく指圧を続けた後、他の患者もいなかったので、安針は茶を勧めた。

「境様は、小具足や柔は、おやりになりませぬか」

「うむ、少しかじった程度でな。面目次第もないという感じだ」

「私の師匠である鷺庵は、元はお侍だったそうで、身を守るすべもいくつか習っております」

実際は独学なのだが、妙に勘ぐられてしまうのを避けるため、安針は鍼の師匠の名を借りた。

「坂上村の子どもたちが使う『投石手ぬぐい』はご存じですかな?」

猿の被害を防いだり、兎を狩ったりするのに使う手ぬぐいのことは、吉次郎も聞いていた。古着を扱う黒田屋が大量に配ったことも知っている。

「あの手ぬぐい、元は別の使い方をするのでございます」

安針は、座敷を通り過ぎて、裏庭に降りるよう促した。


 草履を履いて降り立った吉次郎に、十手を構えてもらった安針は、縁側に置いてあった手ぬぐいを手にした。端に小石が結わえ付けてある。

「境様の十手が、匕首だったとします。両手でしっかり持って腰の高さに構え、体ごとついてきてくださいませぬか。もちろん、ゆっくり手加減していただけると助かります」

十手を構えた吉次郎がゆっくり安針に迫る。十手を持った右手は体に密着しているが、添えた左手は肘がわずかに離れている。体を開いた安針は、左手に持った手ぬぐいを素早く匕首に巻き付け、右の掌を吉次郎の左肘に当ててかち上げた。手ぬぐいが巻き付いているため、両手を離すことができない。気づけば、いつのまにか匕首を取り上げられていた。


 転がされそうになった吉次郎は、何とか踏ん張って耐えた。勢いよく突いていれば、おそらくころんと転がされていただろう。

「ほう、見事なものだな」

「元が古着屋の次男坊でございます。手ぬぐいなら、持ち歩いても目立ちませぬ。師匠は、鍼以上にこうしたことに長けておりました」

「今の動き、鈎縄ではちと難しいかもしれぬ。だが、工夫次第でどうにかできそうでもあるな。先生の師匠殿は、武芸に秀でた方だったようだな」

「ええ、何で鍼医なんぞになったのか、とんと分かりませぬ」

礼を言って、吉次郎が帰っていった。だが、彼の工夫は、間に合わなかったのである。

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