第八章 距離感 ③
幸川に土左衛門(水死体)が上がったのは、夏も盛りの頃だった。髪結いの亭主・京介である。日頃からあちこちで若い娘と関わりを持っていた男だけに、女性問題で拗れたことだけは容易に想像できた。だが、誰との問題だったのかが分からない。同心として十手を預かる境吉次郎は、どう考えたものか悩んでいた。与力の柏木にも相談してみたが、らちがあかない。柏木がよく行く古着の黒田屋でも、これといった噂は拾っていなかった。古着屋はいろんな家に顔を出す。そこでの世間話は、けっこう役に立つのだ。
すでに、十日が過ぎていた。事情を聞いて回るにしても、これだけ時間がたつと記憶も薄れる。京介の女房からは、夫が死んだ理由を知りたいと強く訴えられていた。頼まれたからではないが、吉次郎にとっても分からないのは寝覚めが悪い。ずっと悩んでいると、夜も満足に眠れなくなった。目の下にクマができると、周りも気になるのか休ませようとする。ついには柏木から休めとまで言われた。そこで、藩でも評判のいい鍼医のところへ行くことになったというわけだ。
真言宗・西海寺。住職の天佑和尚は、かなりさばけた御仁と聞いている。山の中腹にある西海寺に行くには、長い石段を登らねばならない。その石段の入り口のところに、ぽつんと建っているのが、目当ての診療所だ。ここに住む鍼医は二代目らしい。初代に弟子入りして、腕を認められて後を継いだそうだ。何でも、目の見えない娘を見えるようにしたと聞いている。一部の者からは「生き神様」とも呼ばれているらしい。名は安針。在家のまま西海寺で修行する僧でもあるという。噂だけ聞いていると、何だかとんでもない人物のようでもある。
訪ねて行くと、近所に住む年寄りたちが、入ってすぐの土間に案内してくれた。中に患者がいるときは、近所の年寄りがこうして世話をしてくれるらしい。戦で使う床几のようなものに座るよう言われた。甕の水は、柄杓ですくって勝手に飲んでいいらしい。
「先生、新しく来た人だよ。お侍だ!」
年の割に張りのある声だった。向かって右側の、障子の閉じられた部屋から
「爺さん、ありがとよ。夕方落ち着いたら来てくれ。灸を据えてやろう」
夕方、患者が少なくなったころに世話することを条件に、近所の年寄りを使っているらしい。家で小言を言われるくらいなら、ここで暇を潰してもらうほうが家族も有難いし、体を養生してもらえるならなおいい。晩飯のおかずは、こうした年寄り連中の差し入れがほとんどだそうだ。おしゃべりな爺さんのおかげで、待つ間は退屈しなかった。
前の患者が出てきた。小股の切れ上がったいい女だ。頬が染まり、目が潤んでいる。よほど気持ちが良かったのだろう。深々と頭を下げ、帰って行った。
「次の方、ああ、新しいお人だね。どうぞ、お入りください」
もうすぐ、日が中天にかかる時分だ。今日の患者は、吉次郎で最後らしい。おしゃべりな爺さんが帰ってしまい、急に静かになった。いつものことなのだろう。頭をそり上げた鍼医は、帳面と矢立を準備して吉次郎に相対した。
「で、どこがどう悪いんですか?」
自分の名前も含めて、日頃の違和感を聞かれた上で、敷かれた布団に腹ばいにさせられて、体のあちこちを指先で押された。
「たぶん、ここが痛いんじゃないですかね」
と言われたとたん、激痛を覚える。思わずうめくと、
「ああ、やっぱり」
と返ってきた。この繰り返しを経て、鍼ではなく灸を据えられることになった。寝不足による疲れが溜まっているだけだという。思い当たることばかりで、ぐうの音も出ない。灸を据えられた所を中心に、体全体が暖まってきた。
「お勤め、大変なんでしょうね。十手持ちだと気を張ってばかりでしょう。あの土左衛門の件、難しいんじゃございませんか? おっと、余計なことを申し上げました」
汗は出てきたが、体が楽になっている。楽になったことも手伝って、口が軽くなったらしい。思わず応えてしまっていた。
「ああ、行き詰まってるよ。髪結いの亭主らしいといえばそうなんだが、殺したいほど拗れるとは思えないのだ」
しばらく間をおいて
「下手人は、恐ろしく短気で嫉妬深いのかもしれませんねえ」
と呟いた。
「なぜ、そう思う?」
「殺したいほど拗れるようなもんじゃないんですよね。なら気の短い奴でございましょう。女がらみなら嫉妬と相場は決まっております。嫉妬深い奴で、今だけ近辺にいないなら、見つけようがないんじゃないかと・・・・・・」
聞きながら、吉次郎の頭の中で、何かがかちりと音を立ててまとまった。
「かたじけない、もう何もしなくていい。世話になったな。釣りはいらぬ」
巾着からあるだけの銭を押しつけ、与力の柏木のもとへ向かった。
昼過ぎの時分なら、柏木がいるのは番屋しかない。地元の連中が交代でやっている見回り、つまり番人の詰め所が番屋。何か犯罪が起きたとき、情報を共有する場所でもある。午前中に歩き回って下手人を捜した与力や同心は、番屋でいったん情報をすり合わせる。夕刻になって、噂好きの連中が飲み始める頃、もう一度だけ聞いて回るといった流れで調べてきた。案の定、番屋に柏木の姿を見つけた。
「柏木様!」
「おお、境か。ゆっくり休めと申しつけておったはずだ。なぜ来た?」
「体はもう大丈夫でございます。それより気になることがございまして……」
灸を据えてもらいながら聞いた話を、かいつまんで説明した。柏木の顔色が変わる。
「ほう、灸を据えてもらいながらというなら、安針先生のとこで聞いたんだな。やはり知恵者だ」
「ご存じでしたか」
「あの先生はな、黒田屋清右衛門の弟なのだ。古着の商売のついでに、あちこちでいい話を拾ってくる、あの黒田屋のな・・・・・・。俺も時々、黒田屋で仕入れた話を使うことがある。やっぱり血筋なのかもしれぬな」
「今だけ近辺にいないと言えば、漁師くらいしかおりませぬ。鰹漁は、たしか明日にでも戻るのではございませぬか」
「うむ。網元の権蔵に話をつけておけ。案外、役に立つ話を聞いておるやもしれぬ」
翌日、新米の漁師がお縄になったのは言うまでもない。衝動的な殺しだったのだろう。最近になって大勢雇った漁師の一人だった。運河の普請が終わり、仕事にあぶれた人足の多くは漁師になっている。元々、柄の悪い者が多い漁師だが、さらに「箍(たが)の外れた」のが、そうした新参者なのである。お縄にした後、柏木は吉次郎にこう語っている。
「境、こたびの一件で、網元の権蔵としても、漁師を引き締めておきたいところだろう。柄の悪い連中は、出漁中の夜、外海で突き落とされるかもしれぬな」
「なるほど、『夜中の小便』でございますな」
外海での漁の際、小便に立った漁師を海に突き飛ばして放置し、見殺しにする行為を「夜中の小便」という。和を乱す漁師を粛正する手だてとして、半ば黙認されてきた。船にいた者が口裏を合わせてしまえば、もはや犯罪ですらない。
だが、柏木も吉次郎も気づいていなかった。戻ってきた漁師の中に、若い娘を手籠めにして平気でいる者は少なくなかったのである。泣き寝入りしている娘の親から、黒田屋は話を拾ってきていた。当然、安針のもとに「始末」の依頼が来ていたのである。結局のところ、漁師の人数は四人減った。幸川の河口から潮の流れに乗り、外海に流されていったのである。お縄になって所払いになった者は、死ななかった分だけ幸せなのかもしれない。
吉次郎は、いつもの見回りに戻った。にらみを利かせていても犯罪は起きる。泣きを見た者の愚痴を聞いて回るのも仕事だと思い、吉次郎は髪結いに足を運ぶ。
「このところ、よくお越しでございますね」
髷を整えながら、おたかが声を掛ける。
「うむ、武士たる者、身だしなみは大事であるから、な」
耳を赤くした吉次郎の言葉を信じる者はいない。面と向かって言う者こそいないが、二人がいつ「くっつく」のか、湯屋の二階では賭けも始まっている。初心(うぶ)な同心の気持ちがおたかに届く日は、まだ先の話になりそうである。いずれにしても、不幸せが幸せに変わる話題は悪くない。そろそろ風が涼しくなってきた。伊納藩は、穏やかな実りの季節を迎えようとしている。
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