第八章 距離感 ②

 ある日の午後、茶を入れて楽しむ安針の治療所に、黒田屋の手代・利吉と佐吉が訪ねてきた。迎えた安針、先に口を開いた。

「おう、身のこなしが軽いな。ずいぶんと稽古を積んだようじゃないか」

何の用事かは分かっている。機先を制して今後の自分が自由に動けるようにしたかった。

「立ち話も何だ。まずは上がってくれ」

入り口から、炊事をするための土間を経て、左右に二間だけあるのが診療所だ。左手の狭い方が居間で、右手のちょっと広い方が診療のための座敷。安針は二人を居間に上げた。

「茶しかないが、まあ飲んでくれ」

多めに淹れた茶は、少し冷めてきている。二人は、出された湯飲みには手を付けなかった。居住まいを正した利吉は、いきなり本題から話し始めた。

「こないだの『始末』、安針先生ですよね」

沈黙を肯定と受け取り、利吉は話を続ける。

「黒田屋清右衛門からの伝言でございます。『始末全構無(しまつすべてかまいなし)』の約定通り、安針先生の思うとおりにされてかまわぬとのこと。特にこたびの件は、町方も手をこまねいておいでだったようです」

安針の兄とは言わず、店の主としての清右衛門の名を出してきた。

「ふむ、まあ、俺としては願ったりかなったりだ。だが、そこまで勝手を認めてもよかったのかい?」

「今後は、この佐吉を寄越します。昔痛めた腕の養生だと言えば、周りも怪しみますまい。『始末』の前に一言あれば、ご入り用のものは何なりと・・・・・・」

やや後ろに控えた佐吉が、黙って頭を下げる。裏の「始末」については、今後は佐吉を通せということらしい。

「黒田屋に持ち込まれた『始末』についても、お願いすることがあるかと思います。ご承知おきください」

「ああ、いいよ。俺の方からも使いが出せるようなら出すようにしておく。ただ『始末』の掟だけは、曲げるつもりはないぞ」

「もちろん。黒田屋の利は求めますが、あくまで真っ当な者が真っ当に暮らすための『始末』でございます。ご安心ください。あと、茶葉の質が少々よろしくないようでございますな。佐吉、お出ししなさい」

差し出されたのは、少々お高い茶葉だった。


 そろそろ夏本番。行水だけでは物足りなくなって、安針は湯屋に行くことにした。商家の並ぶ界隈やその外れに、何件か湯屋が建っている。この時代は、混浴が常識だった。中は薄暗く、互いの裸をまじまじと見ることのないようにしてある。利用客は、侍や大店の商人以外。つまり、あまり裕福でない者たちである。安針も、子ども時分は黒田屋で風呂に入っていた。家を出て鍼医の修行を初めて以来、風呂は湯屋を使うようにしてきた。


 かけ湯を済ませ、体を洗う。石けんなんて便利なものはないし、糠袋は秋に米の収穫を終えてからでしか手に入らない。桶に湯を汲んで、丁寧に洗った後、ゆっくり湯船に浸かる。

「先生、この時分にお会いするのも珍しゅうございますね。いつもはもう少し明るい頃じゃございませんか?」

薄手の湯着を身につけた湯女(ゆな)が、声をかけてきた。

「ああ、思いついたのが夕方になってからだったのでね。上がったらそのまま帰って飲んで寝るだけだよ」

「お背中、流さなくて良かったんですか?」

「それくらい自分でできるよ」

石けんがない代わり、湯女に垢擦りを頼むことができるのも、この時代の在り方である。筋肉達磨の腕力は、湯女の助けがなくても垢擦りには充分だった。

「一度くらい、させてくださいよ。先生、いい体してますよねえ」

湯女の視線を感じて、安針は湯船から上がれなくなった。朴念仁ではないつもりの安針。湯の中で勃ってしまったナニかを見られるわけにはいかない。

「また今度な。ほれ、他の客もいるのではないかな」

離れてくれたのを確かめ、そそくさと体を拭いて、安針は帰ることにした。


 湯屋から出ると、夕暮れの空にちょうどいい塩梅の風が吹いている。もう少し明るければ、二階の座敷を覗くところだが、今日はこのまま帰るつもりでいた。湯上がりの客は、二階の座敷で涼んで帰るのが常である。安針が風に吹かれて気持ち良く涼んでいると、二階から降りてくる足音が聞こえた。髷をきっちり結い上げた優男である。

「京介さん、お前も遅かったのかい?」

京介は、髪結いの亭主である。女房のおかよの稼ぎで暮らし、いつも明るいうちから湯屋に来ている。

「いやいや先生、昼過ぎにひとっ風呂浴びて、そのまま将棋指してたら今になっちまいましてね」

「いいご身分だね。たまには女房孝行でもしたらどうだい?」

「そりゃそうだ。面目ない」

要するにヒモのような生活をしているのだが、不思議と憎めない。人の懐にするりと入り込み、上手に聞きながら気持ちをほぐしてくれる男なのだ。ただ、その相手が年若い娘に限るというのがよろしくないのだけれど。

「悩みを聞いてやってるそうだけど、ほどほどにな。相手が本気になってはまずかろう」

「分かってはいるんですけどね。そういえば先生、小見屋に奉公してる女が、ときどき折檻されてたって話、ご存じですか? 今は収まってるみたいなんですが」

辺りが暗くなってきた。立ち話とはいえ、内容が際どくなりそうでもある。明日の早いうちに診療所に来るよう言い含め、その場を切り上げることにした。


 翌日は、患者の数がいちばん少ない日だった。せっかく来たのだからということで体の調子を診てやり、指圧でほぐした後、話を聞くことになった。

「あたしが聞いたのは、去年の暮れのことなんですよ」

ずいぶん前の話らしい。

「おたきって女がいましてね。水仕事をしてるうちにあかぎれが酷くなったらしいんですよ。そのまんま着物を洗ったもんだから・・・・・・」

古株の下女に、こっぴどく叱られたらしい。折檻というより説教だ。途中で話が大きくなったのだろう。元々あかぎれは、ビタミンC・Eとミネラルの不足や、水気を切らず濡れたままでいることで手先の油分が少なくなるために起こる。この時代の食事は、安針の前世である平成の世と比べ、常に栄養失調の虞がある状態であった。


 京介の聞いた話から考えると、小見屋だけに限った問題ではなさそうだ。藩の食事全体を改善するのは至難のわざである。ならば予防のための習慣を広めるしかない。安針は、黒田屋を頼ることにした。兄の清右衛門は、商家の主や農村部の庄屋とのつながりを持っている。そうした名主のつながりを使い、ちょっとした手荒れのケアを提案してもらったのだ。やり方は簡単である。


 古着を扱う黒田屋からは、仕立て直しの際に出てきた端切れを手拭いとして再加工し、月に一度のペースで配付。手洗い後、しっかり拭いて手先に水分を残さない習慣を身に付けさせる。残った水分が手の油分を奪うのを防ぐためである。さらに、食用の油を扱う店からも、それぞれの店や庄屋に、少量の油を支給してもらった。ぬるま湯に数滴垂らし、手を浸すことで、手先の油分を補給するのである。売り物としては質の落ちるものを分けてほしいという形で、話をまとめてもらった。すぐに結果が出るわけではない。だが、手洗い後に拭く習慣は、衛生面での効果が見込めるし、手荒れ防止は、下女の勤労意欲の向上にもつながる。


 さらに、小料理の店「月見や」に頼んで、安針が個人的に作っていた「つまみ」を広めてもらうことにした。今まで店に出せないでいた「くず野菜」とさつま芋を切り刻んで米粉と混ぜ、味を調えて油でかき揚げを作るのだ。小見やでは溶き卵も加えて差別化を図った。薩摩で作られている「がね」である。芋は、網元の権蔵のつてを頼って取り寄せた。ビタミンEは、油に溶ける。野菜の栄養と共に、油も補充できるというわけだ。新しいつまみを、外でも気軽に食べたかったわけではない・・・・・・という言い訳を、安針は誰に言うともなく呟いていた。


 前世の歴史でも、この地域の郷土料理として知られていたものである。たまたまなかった料理を、ちょっとだけ先取りしただけだ。かくして安針は、明るいうちから一人杯を傾けるというわけである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る