第八章 距離感 ①

 うつろな目で、呟く。

「隣の芝生は青いんだよな。なら、となりに居たまんまの方が幸せじゃねえか」

早めに帰宅して見せつけられた浮気の現場。風呂に仲良く入った同僚と妻の嬌声。すかさず録音してこっそり家を出て・・・・・・。淡々と進めたはずの離婚訴訟の準備のとき、思わず零れた独り言。何度見ても、げんなりする夢だ


* * * * * * * * * *


 幕府ができて、世の中は平和になった。伊納藩五万石も、幸川下流と港を結ぶ運河のように、静かな佇まいを保っている。安針の診療所付近は、わずかばかりの田畑があって、近所から何くれとなく差し入れがある。鍼や灸のおかげで調子を取り戻した患者からの「お礼」である。昨夜、前世の記憶を夢で見たせいで、鬱々としている。令和には入っていたが、ほぼ平成の世から逆行転生した安針は、進学塾の講師から鍼医になった。もっとも、前世と違う地名ばかりの今世は、どうも並行世界であるらしい。ちなみに今日で二十五歳になった。数えで二十六。まだ、前世での感覚が抜けきらないでいる。


 午前の施術を終え、茶を入れてのんびりしていると外から声がする。甲高い子どもの声だ。

「ちぇんちぇい、ちぇんちぇい、ちぇんちぇい」

何度も繰り返すのがうるさくて、それでも可愛らしい数えの四歳児にまんざらでもない安針は、小走りで戸を開ける。

「たえ、どうした? おとっちゃんの具合でも悪くなったのかい」

「ちあう、ちあう。おちゅちょわけ!」

どうやら「おすそわけ」らしい。かごに泥鰌が入っている。走ってきたらしく、肩で息をしている。かごを受け取ると、父親の孫六がやってきた。

「こないだは、お世話になりました。兄貴んとこからもらった卵でございます。泥鰌を卵とじにすれば、うまいんじゃないかと思いまして」


 一人暮らしの安針は、料理も得意である。泥鰌は下ごしらえが済んでいて、ぬめりが取れている。ありがたい。午後の施術には、誰も来ない。のんびり料理しながら、明るいうちに一杯、なんてことを考えていると、

「のみちゅぎ、だめ!」

小さな世話女房から、お叱りを受けた。


 お忙しいでしょうからと、そのまま帰る孫六たちを見送って、安針は家に入る。たえの姿を見たのは、それが最後になった。


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 二日後の朝、幸川下流と港を結ぶ運河に、たえの亡骸が浮かんでいた。近所で遊んでいたはずのたえを見失った母親が探し回り、疲れ果てて帰宅したときの第一報。ハゼ釣りに来ていた子どもの発見だった。ただの水死体ではない。たえは、何も着ていなかった。集まった野次馬の声が、嫌でも聞こえてくる。

「おい、何で裸なんだ」

「あれって、孫六んとこの子じゃねえか」

孫六とその家族に聞かせるには、無神経な言葉が多すぎた。だが、人の口に戸は立てられない。


 安針は、帰宅後、戸締まりをして居留守を決め込むことにした。居間に使っている小さな座敷に座り込む。結跏趺坐と呼ばれる座り方だ。軽く目を閉じて、生前のたえを思い浮かべる。その姿を軽く「押」した……。コマ送りのように、たえが動き出す。家族が見失った辺りから「押」す力を緩めると、見たくなかったが見なければならない映像が見えてくる。安針は泣いていた。便利だが切ない「透視」の力である。


 いつもなら、黒田屋に使いをやってからの「始末」だが、安針はあえて無視することにした。裏の「始末」がまともにできるのは、今のところ安針だけ。黒田屋の手代・利吉は、もう少しすれば番頭として名を利之助と改める。もう一人の手代・佐吉に引継を済ませれば、「始末」の元締めとしては引退だ。藩から黒田屋が与えられた「始末全構無(しまつすべてかまいなし)」の言質は、実質、安針だけが使えるようなものだ。いたいけな幼子をねぶり尽くすような「人でなし」一人を「始末」したところで、誰からも文句は出ない。

「さて、若旦那も年貢の納め時だな。跡取りは、息子を諦めて番頭さんにでも頼ってもらおうか」

 前世の夢でつぶやいた「隣の芝は青い」というセリフ。それはそのまま、たえの笑顔と重なった。笑顔は笑顔のまま、青い芝は青いままでいてくれればいい。その美しさを台無しにするモノがあれば、目の前から消してしまえばいいのだ。安針は、深夜の城下町をひた走った。


* * * * * * * * * *


 七分丈の筒袖に裁着袴(たっつけばかま)。着物自体は古着である。上下黒だが、少し赤みも含んだ黒だった。夜の闇では、真っ黒よりも赤みがあった方が目立たない。古着を扱う黒田屋の裏で染め直したこの着物は、裏の「始末」に臨む若衆がよく使っている。もっとも、裁着袴(たっつけばかま)まで染めているのは安針だけだ。背丈四尺七寸。首周りにしっかりとついた筋肉のせいで、背中から見ると「達磨」に手足が付いたように見える。短い手足を自由に動かすための七分丈の筒袖であり、裁着袴(たっつけばかま)なのだ。


 月明かりがなければ、走るどころか歩くことすらままならない。度重なる夜中の「始末」のためか、安針は夜目が利くようになっていた。体型はアレだが、安針のスタミナはある。汗もかかず息も上がらず、散歩のついでのような雰囲気で、下手人の家に辿り着いた。大店(おおだな)である。「島田屋」と大書された看板を見上げながら、安針は店の右側にある柱に手をかけた。伊納杉を一本、そのまま使った柱だ。弁甲材(船を作るための材木)に適した、柔らかい杉だ。尖ったモノがあれば、簡単によじ登ることができる。


 黒田屋で作らせた小さな両刃のナイフ「苦無(くない)」を使い、安針は屋根まで上がった。忍びが使うものとの違いは分からないが、前世の記憶をもとに作らせた一品。足場のないところに苦無を使いながら垂直に登る姿は、人間離れしていた。「筋肉達磨」が屋根に上り、瓦を外していく。毎年のように「野分(のわけ)」つまり台風に悩まされる伊納藩は、屋根瓦を漆喰で固定する。峯屋のような大店は、毎年のように大工を雇って漆喰の点検をしている。黒田屋がカネを出せば、侵入用に漆喰を緩めるくらいは容易い。


 もちろん、風で瓦が飛んでしまえば、その不備は責められる。だが、瓦数枚を弁済するくらいなら、黒田屋からカネをもらったほうがよい。裏の「始末」のため、黒田屋は藩内の商家すべてに、同じような細工をしていた。もちろん、細工をする大工は、子どものころから黒田屋が目をかけて育てている。大工の棟梁のあずかり知らぬところで、「始末」の準備は着々と整えられているのだ。


 瓦を外し、緩められた目釘を外して屋根裏に潜り込む。間取りは把握しているので、迷うことはない。跡取り息子は、店の裏庭に面した一室をあてがわれていた。部屋は暗い。天井の板をそっと外すと、軽いいびきが聞こえてきた。縄を伝って静かに降り、必要な経穴を選んで鍼を打つ。まず、手足を麻痺させた。ついでに声も奪い、仰向けに寝ている「人でなし」に馬乗りになる。鼻をつまんで乱暴に揺すると、さすがに目を覚ました。


 目を見開いて驚かせたところで、顔を寄せた安針は淡々と告げる。

「幼い娘にしか興奮しない『人でなし』がのさばっていては、世の親が困るんだよ」

安針の右手が、左の耳にするりと差し入れた長めの針。細い針が半分以上入り込んだところでびくりと体が震え、目の光が失われる。素早く立ち上がり、枕元の箱から、たえの着物を取り出し、他のはそのままにして、侵入経路を逆に辿って退散した。


 翌朝、起きてこない「おぼっちゃま」の様子を見に来た下女が騒ぎ出し、町方が駆けつけた。どこからも血を流していない亡骸と、枕元の箱からあふれた子供用の着物。柄や色から見て、明らかに女物である。島田屋にそんな子どもがいないことは周知の事実であったため、むしろその着物の存在の方が問題になった。最近多くなってきた幼女の拐かしと繋げて考えたのも自然な流れだった。変死扱いで処理されたこの一件は、島田屋の評判をずいぶん落とすことになった。


 数日後、孫六の家の前に、綺麗に畳まれた着物が置かれてあった。たえの形見である。

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