第十四章 始末の行方 ①
咲夜が山に帰って、一番寂しがったのは太郎だった。年も近いし、お似合いだったとも言える。黒田屋で、咲夜が安針の子種をもらいに来たと聞かされたときは、しばらく飯が食えなかったらしい。太郎にとって、安針は体術の師匠。弟子として師匠の存在は絶対的なもの。真面目な太郎は、一人でもんもんとしていたらしい。いつものようにやってきた太郎に、安針は声をかけた。
「太郎!」
うつむきながら太郎がこちらを向いた。
「どうした? 最近、覇気がないぞ」
「咲夜がいなくなると、少し寂しくなるな」
太郎が顔を上げて、物問いたげな目で安針を見た。
「何か言いたいのではないか? 言わなければ、何も始まらぬ」
「も、元より始まっておりませぬ」
この答えは予想していた。安針はあえて
「誰のことだ?」
と尋ねてみた。
何のことだ、ではない。あえて「誰」と尋ねることで、太郎は明らかに動揺した。咲夜の話題の後で「誰」と言われ落ち着きを失うことで、太郎は咲夜への思いを白状したことになる。
「咲夜が山に戻ったのは、俺の子種をもらったからではないぞ。太郎、お前は何か勘違いをしているのではないか?」
太郎は再びうつむいた。土間に立ちすくんだままだ。
「せっかくだから、少しだけ話しておこう。まずは上がってこい」
少しだけためらった後、太郎は草鞋を脱いだ。
安針は、山の婆さまとのやり取りについて太郎に話した。心の「声」のやり取りをしていたことにまず驚かれたが、それをすんなり納得した太郎に、安針が逆に驚かされた。安針の話に嘘はないと言い張るのだ。咲夜を目で追っていた太郎は、咲夜の呼吸まで感じ取れるようになっていた。五感の働きが随分と鋭敏になったようだ。今では、猪狩りの際に谷ひとつ離れた向こう側の音や匂いを感じることができるし、風の揺らぎと異なる草木の動きを見逃すこともないという。それは相手が人間でも同じだと太郎は言った。相手の表情や手足の動き、体全体の緊張感まで、最近では見取ることができるらしい。
「太郎の『見取り』が本物なら、俺と仕合っても勝てそうだな」
「いや、自分が動きながらだと、うまくできないのです。今のところ、時間をかけて見取った後、動き始めるくらいしかできませぬ」
「まあ、それはいいとして、俺が咲夜とどうこうするつもりがなかったことは、分かってくれたかい?」
太郎の表情が、目に見えて明るくなった。だからといって、太郎が咲夜と添い遂げるのが難しいのに変わりはない。若い太郎にとって、娘を好きになるのは初めてのことらしい。好きな娘が清らかでいてくれるだけでも、太郎には救いになったようだ。
それからの太郎は、今までにまして体術の稽古に取り組むようになった。山の婆さまの「声」によると、手長が太郎の狩りを手伝うことがあるそうな。山の民が里者とつながりを持つのは珍しい。俺に縁のある者として、婆さまもこのつながりを黙認している。狩りだけでなく体術でも後れを取っている太郎にしてみれば、手長に追いつきたい一心で稽古しているのだろう。だがそれは、始末屋としての暗殺術ではなく、武術としての高みを目指すのに近い。
さらに太郎は、手長から薬草の見分け方まで習っていた。初めて会ったころの不愛想な手長しか知らない安針には意外だったが、太郎もずいぶん気に入られたものだ。城下の医者から頼まれて、薬草を探すための山行きも増えてきた。口数は少ないが、依頼されたものは必ず持ち帰る太郎である。猪の害に悩む百姓衆に加え、医者にまで信頼されるようになった。黒田屋の若い衆や安針の情報網と併せ、藩内のことで分からないことはほぼなくなってきている。情報操作で済む「始末」が増えれば、殺しを含む荒事の「始末」は減ってくる。安針の跡継ぎとして育てられてきた太郎は、「牙」を持ちながらそれを使わぬ「耳目」として、大きく成長したことになる。
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