第十三章 山の民 ③

 昼過ぎ、安針の診療所に太郎がやってきた。昨日の稽古の続きをしたいという。半身になって構え、太郎の左手が安針の右手首をつかむ。そのまま引っ張って拳を突き入れようとする力を利用して、安針は手首を反時計回りにねじり、左肘の内側に手を添えて太郎の背後に導く。重心を崩した太郎がたまらず後方に倒れ、自分の臍をみながら受け身を取った。

「手首をつかんだ者は、たいてい自分の方に引き寄せようとする。だから技がかけやすくなるのだ。相手が動く方向を少しずらして、自分に都合のいいように導くのだ」

何度も同じ技をかけ、太郎にもかけさせて習熟を図る。この程度の稽古なら、施術に使っている六畳間でもできる。


 山の婆さまとのやり取りのことは伏せて、安針は太郎に山に入るよう頼んだ。

「太郎、もう一度『手長』とやらに会ってくれぬか」

「会うと言っても、むこうの居場所が分かりませぬ」

「お前が会った場所に行くだけでよかろう。おそらくその場所は、『手長』の猟場でもあるのだろう。そうでなければお前に出会うこともなかったはずだ。会えたら、また話を聞いてくれるだけでいい」

二人が初めて会った場所は、猪の獣道からほど近いところにある。足腰の強い太郎だからこそたどり着けた山奥の猟場だった。

「承知いたしました」

手長の体術に興味のある太郎がすすんで引き受けてくれたのは、言うまでもない。


 伊納藩の冬は、雪が降らない。港から小半時もかからないところに黒潮が流れていて、毎年台風が来る。気候帯としては、亜熱帯寄りの温帯といったところか。風は冷たいが、雪国のような苦労はない。安針に頼まれた翌日、通い慣れた山を登る太郎の姿があった。安針は、山の婆さまの「声」が聞こえた「場所」に心を飛ばし、太郎が行くことを伝えている。それを知らない太郎は、いつもの場所に待つ手長に驚いた。隣にもう一人立っている。

「手長、そいつはだれだ?」

手長の隣に立つ人影は、太助の背丈よりやや低く、手足も細かった。猟をするため毛皮を羽織っているので、体型はよく分からない。顔は整っていたが、何日も猟に出ていたらしく、ずいぶん汚れている。例によって、手長の返事は短かった。

「こいつは『さくや』だ」

手長の隣で「さくや」がわずかに頭を下げた。珍しく、手長が言葉を継いだ。

「こいつを、里に連れて行け」

「なぜだ。」

手長に尋ねるときは、短い言葉に限る。答えも簡単だった。

「婆さまに言われた」

「何と言われたんだ」

「連れて行けと」

「どこに?」

「・・・・・・お前・・・・・・のところ・・・・・・」

「知らないのか! それにいいかげん『お前』はやめてくれ。俺は『太郎』だ」

「そうか、太郎・・・・・・俺は行く」

寒い山の中で、これ以上のやり取りは時間の無駄でしかない。太助はやむなく「さくや」を引き取り、山を下りた。だが手長には、明日もう一度ここに来るよう念押しするのを忘れなかった。この「さくや」とやらを、明日山に返すことも考えておいたほうがいい。


 太郎自身も「さくや」と似たような出で立ちだったため、山を下りて歩く二人が不審に思われることはなかった。二人はその足で、真っ直ぐ診療所へと向かった。安針は施術の最中だったので、裏庭に回って井戸水を汲み、はばきを取って足を洗った。井戸水は年間通して同じ温度である。寒い山から下りてきた二人には、むしろ心地よい。自らの足を洗いながら、「さくや」の引き締まったふくらはぎが白いのが目にまぶしい太郎だった。笠を脱いで顔を洗う太郎の横で、「さくや」はなかなか笠を脱ごうとしない。そうこうするうちに、安針が顔を出した。

「おかえり太郎。そちらは誰だい?」

「山の婆さまのところから来た『さくや』だそうです」

立ち上がった「さくや」が、笠を脱いだ。勢いよく脱いだためか、束ねていた長い髪がはらりと落ちた。

「お前、女だったのか」

驚く太助の横で、安針がほほえんだ。

「婆さまから『声』が『届』いておる。しばらくうちでのんびりしなさい」

「安針先生、『声』とはいったい・・・・・・」

太郎に最後まで言わせず返事があった。

「はい、よろしくお願い申し上げます」

高く澄んだ声である。


 さくやは、花が「咲く」に「夜」と書くのだという。桜の咲く季節、夜遅くに生まれてこの名がついたそうな。手長の妹で、山のムラの、おそらくは長(おさ)である「婆さま」の孫にあたるらしい。両親を亡くし、ムラの女たちが交代で世話しながら育ててきたと聞いた。最低限の会話の中で猟をしながら育ったためか、手長は極端に無口になった。一方、咲夜の整った顔と明るい笑顔は周りに可愛がられ、「婆さま」の世話をしながらその言葉をムラに伝えてきたという。寝たきりの「婆さま」の言葉は、一緒に世話をしてきたムラの女が引き継いだとかで、安針のところに来たというわけだ。


 安針は、咲夜がやってきたいきさつを文にしたため、太郎に託した。咲夜の扱いは、黒田屋の在り方に関わってくるかもしれない。太郎の走りなら時間はかからない。程なく返事と女物の古着を持って太郎が戻ってきた。明日、黒田屋に連れてくるようにとのことだ。咲夜に伝えた上で食事を取らせ、とりあえず床に就くことになった。


 翌日、咲夜をしばらく預かる旨を伝えに、太郎が山に入った。安針は、咲夜を連れて黒田屋へと向かった。腰まで伸びる長い髪を軽く束ねただけの咲夜は、切れ長の目が印象的な娘だった。聞けば、年は一八だという。娘を連れた安針が珍しいのか、あちこちで声をかけられる。

「安針先生、どこの娘さんですか」

「まさか隠し子じゃありませんよね」

「お清さんやお吟さんのときと違って、今度はずいぶん若いじゃないか」

咲夜は、遠慮のない言葉に答えようがないのかうつむいたままだ。さらし者になった気分で、安針は落ち着かなかった。


 黒田屋に着くと、奥の座敷に通された。座敷に茶を持ってこさせ、人払いをした上で、清右衛門が名乗った。

「この子が咲夜さんかい。はじめてお目にかかるが、私はこの店の主・清右衛門だ。安針の兄にあたる」

「初めてお目にかかります。山の民の長(おさ)の孫、咲夜と申します」

「『山の民』と言いなすったね。そりゃ、神様のお使いと言われた、あの『山の民』かね」

「神の使いかどうか存じませぬが、里の者とは久しく交わりを断っておりました」

「それがなぜ今になった里に?」

「長である私の婆さまに、跡継ぎがいないのです」

「跡継ぎがいないって、どういうことかね?」

「婆さまと同じ『力』を持たないと、ムラを束ねることはできませぬ」

「婆さまと同じ『力』って何だい?」

「目を使わず遠くを見通したり、これからどうすればいいのかを感じ取る力でございます」

清右衛門の目が、安針の方を向いた。咲夜はさらに続けた。

「婆さまは、こちらの安針先生のことをずっと『観』ていました。里との関わりが切れないことも承知しております。その上で・・・・・・」

「待ちな!」

途中で清右衛門が遮った。

「するってえと何かい? 安針の『始末』も『観』てたって言うのかい?」

咲夜は落ち着いて答えた。

「『始末』が何のことだか聞かされておりませぬ。でも婆さまは、安針先生のことを『良い狩り手』だと申しておりました」

部屋の空気が緩んだ。獣を狩る「山の民」らしい誉め言葉である。暗に「始末」のことを認めていると言っているようなものだ。

「途中で遮ってすまなかったね。それで婆さまは、安針を山に迎えたいっておっしゃるのかね」

「いえ、この里との関わりが、なかなか切れないことも承知しております。その上で、安針先生の『子種』を、私が頂きたいのです」

清右衛門の視線が痛い。慌てた安針は、思わず声が大きくなった。

「おい、婆さまにそこまでは聞いてないぞ」

「じゃあ、どこまで聞いてたんだ?」

清右衛門の目は、どこまでも冷たかった。二十七も違う娘が相手なんて、どう考えても世間体が悪い。

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