第十三章 山の民 ①

 冬の気配が近づく十月の末、太郎は猪を追って山に入っていた。春に向けて猪はつがいになる。つがいになれば子ができる。そうなる前に数を減らしておきたい。畑を守るというより、狩りそのものが楽しくなってきた太郎である。足跡を確かめ、風向きに気を付けながら、獣道のそばで獲物を待つ。待つこと半時、やや小さめの猪が現れた。まだ育ち切っていないようだ。太郎は見逃すことにした。


 山を下りようと踵を返したとたん、声をかけられた。無造作に投げ出された声だ。

「大物狙いだったのか?」

声をかけてきたのは、粗末な着物に獣からはぎ取った毛皮を着こんだ男だった。背丈は五尺ほどで太郎と同じくらい。だが腕は太郎より一寸ほど長い。動物性たんぱく質の不足するこの時代、安針も五尺にはわずかに届かない。黒田屋で背高の利之助ですら、五尺五寸でひょろりとしている。ところが、太郎の目の前の男は、筋肉の塊だった。男は、不愛想な態度のまま言葉を継いだ。

「大物狙いだったのか?」

要領を得ないまま、太郎が答える。

「おう、俺が狩りたいのは大人の猪だけだ。子どもは相手にしない」

反身で答える太郎の言葉を遮るように、目の前から否定の言葉が飛ぶ。

「あれはあれで大人だ。ただ小さめなだけだ」

それだけ言うと、男は背を向けて立ち去ろうとした。


 理解の追いつかなかった太郎も、さすがに自分を取り戻した。

「おい待て。お前いったい何者だ?」

面倒くさそうな表情で振り向いた男は、

「俺か? 『手長』と呼ばれている」

とだけ答え、立ち去ろうとする。太郎は男の手首をつかみ、さらに尋ねようとした。すると、目の前の風景が回転し、背中から地面に叩きつけられた。とっさに臍を見る姿勢を取って頭だけはかばったが、不意打ちの投げ技になすすべもなかった。手長と名乗る男は、

「ほう、頭だけはかばって落ちたか」

と、その場に立ち止まった。


 投げられた直後、太郎は仰向けのまま山刀を抜き、切っ先を相手に向けた。だが男は見下ろしたまま何もしようとしない。視線を合わせたままゆっくり起き上がった太郎は、声をかけることにした。

「なぜ投げた?」

「手をつかまれたからだ」

「お前が立ち去ろうとしたから、つかんだだけだ」

「俺には別に用がない」

どうも話がかみ合わない。何だか獣が人語を操っているような不思議な感じがした。山刀を引いた太郎は、さらに尋ねた。

「さっきの猪は、大人だったのか」

「ああ、小さいだけだ」

「お前は大人なら、小さくても狩るのか」

「腹が減っていれば狩る」

「腹が減っていなければ、狩らないのか」

「ムラの腹が減っていれば、狩る」

「今日は、お前やムラの腹は減っていないのか」

「今日は見に来ただけだ」

「何を見に来た?」

「シシの道だ」

手長と名乗る男は、猪の獣道を熟知しているらしい。いつでも狩ることができるという自信が感じられた。

「お前のムラはどこだ」

「婆さまに、言うなと言われた。俺はもう、行く」

取り付く島もなかった。

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