第三章 鍼医 ③
安針は、十七になった。師匠の代わりに施術することも、増えてきている。安針の施術が増えると、例えば食事をはじめとする師匠の世話ができなくなる。西海寺のつてで人を雇うことにした。やってきたのは、ふっくらというより逞しい感じの「肝っ玉かあさん」みたいな人だ。檀家の一人で年の頃は三十くらいだろうか。名前はお兼さんという。城下で一杯飲み屋「大政」を切り回す政吉さんとはおしどり夫婦。もっとも、無口な政吉さんがお兼さんに逆らわないのが円満の秘訣なのかもしれない。
城下一の小料理屋「月見や」で修行した政吉さんは、客の顔を見ながら商売がしたいという理由で独立した。「月見や」にいたころ、魚の目利きに定評があった男だ。二里離れた峯津の港で仕入れていた折、一本釣り漁師の藤吉さんに気に入られ、娘のお兼さんと所帯をもった。お兼さんとの間に子はいないが、自分の娘が気になる藤吉さんは、数日おきに女房のお梅さんをやっては、世話を焼かせている。娘夫婦のところに転がり込んで邪魔になるとは思わないらしい。あの夫婦に子供ができないわけだ。
梅雨も明けるころのある夕方、施術が終わる時分に、お兼さんが鮑を持ってきた。お梅さんから貰った分の「お裾分け」だろう。酒で蒸して、味噌で和えるという。師匠の好物だ。最近、食の細い師匠に元気になってほしくて、冷や酒の用意も頼んだ。膳に乗せ師匠の部屋に持っていく。
「お、気が利くじゃないか」
案の定、弾んだ声が返ってきた。
「飯は後にして、まずは一献」
盃というよりぐい飲みサイズの器に、酒を注いでやる。弟子入りしたころは茶碗酒だったが、ずいぶんおとなしくなった。この調子なら、いつもより気持ちよく食べてもらえそうだ。いつもより箸もすすんでいる。
期待通り、鮑の蒸し切りを肴に飲んだ師匠は、冷や飯を湯漬けにしてしっかり完食してくれた。歯磨きのために爪楊枝を渡し、膳を片付ける。部屋に戻り、使い終えた爪楊枝を受け取ろうとすると、まだ使った様子もない。ほろ酔い加減で爪楊枝を弄ぶ師匠は、のんびりした口調で
「おい安針、年はいくつになったんだ」
と声をかけてきた。釣り込まれるように答えようとしたそのとき、重い風のような圧力を感じて、左足を引いた半身となり、相手の背中を一瞬押した。
前のめりになって踏ん張る力を利用して左手を顎の下に沿え、斜めに入身する。合気道の「入り身投げ」だ。師匠は安針の動きに逆らわず、背中を丸めころんと転がった。同時に、右の太股外側の付け根がちくりとする。爪楊枝の先端が、浅く刺さっていた。ここをやられたら、右足が動かせなくなる。鍼医が学ぶのは、治す経穴だけではない。思わず、股ぐらが縮み上がった。
流れるような動きで起き上がった師匠が
「ほう、やはりな」
と呟いた。ここ数日、老け込んで元気がなかったのは演技だったらしい。安針の鍛錬は、ここにきてばれてしまった。黒田屋にいたころ安針の「受け身」を見破った鷺庵は、何らかの武道を身につけているとみえる。年を考えれば、その技は達人の域と呼んでもいい。住み込みの安針がこっそり鍛錬していたことも、最初から知っていたのかもしれない。その上で余計な言い訳をしないよう、段取りをつけていたのだろう。
「鍼医の仕事だけ覚えておけばよかったろうに。なぜに体を鍛えてきたのだ」
師匠の目が、安針の奥底まで見極めようとしている。右足を少し前に出した半身で、師匠の膝はかるく曲げられていた。目を離せば、一呼吸で間合いに踏み込まれるだろう。安針は観念した。
「他意はございませぬ。兄の通う道場に行かせてもらえぬ我が身が、悔しゅうございました」
悔しい気持ちはなかったが、他意がなかったのは本当だ。前世の「記憶」をそのままにしておくのももったいない。この時代の治安が前世に比べて良くないのは、じゅうぶん承知している。安針はだらりと腕を下げ、戦う意思のないことを示した。
その様子を見た師匠は、ようやく構えを解いた。
「まあ、座れ。言うて聞かせることができてしもうた」
返事を待たず、師匠は胡座をかいた。この体勢からいつでも動けることは、よく分かっている。こうなってしまった師匠は、いいかげんな説明では納得しない。言葉を選んで話さないと、とんでもないことになる。
師匠がまず気にしたのは、安針の体捌き。合気道の体捌きは剣の理合いが基本。安針は、黒田屋の裏庭で兄が稽古していたのを盗み見て工夫したと言い張った。合気杖には、相手の得物に杖をからませて巻き取る技もある。相手が斬りかかってくるのを想定したと言って、何とか納得してもらった。本当のところ納得していないかもしれない。だがこれ以上話すつもりもなかった。安針の目に月明かりが染みる。長い夜になりそうだ。
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