第三章 鍼医 ②

 入門して五年目、平太郎は、指圧だけ任されるようになった。経穴を押すと、経絡に沿うようにして血の巡りが良くなるのが平太郎には「観」える。症状の重い患者ほど、指圧に痛みを感じやすい。経穴を押さなくても、経絡に沿って皮膚を撫でるだけで血の巡りが良くなる患者もいた。これが、「透視」に続いて発現した「念動」の力である。もっとも、血の巡りを左右できる程度でしかないため、あまり重い物は動かせない。


 いつものように施術を終えた平太郎は、別室の鷺庵が施術を続けているうちに、晩飯の準備をすることにした。先ずは飯を炊く。「始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣くとも蓋取るな」とは言い得て妙で、黒田屋での炊事をちょいちょい覗いていた平太郎には、手慣れた作業だった。飯が炊けたのを確かめたところで、患者の一人が持ってきてくれた真鯵をまな板に乗せる。


 胸びれの下に包丁を入れ、頭に向かって斜めに切り込む。裏返して反対側から包丁を入れ、頭を落とす。腹の下に斜めに包丁を入れて切り落とし、腹の中のワタを掻き出す。背を手前に向けて包丁を中骨に沿わせて切り込み、三枚におろして腹骨をそぎ切る。鯵の大名おろしだ。前世で自炊を続けていたため、平太郎の包丁捌きは器用だ。そのまま細作りの刺身を手早く盛りつけると、うまい具合に師匠の施術が終わった。


 いつものように師匠に声をかける。

「お食事の準備ができました」

鍼医の嗜みか、師匠は施術後必ず手を洗う。膳を運ぼうとして、箸が一本だけ落ちた。声をかけてもたもたしていると、師匠の機嫌は悪くなる。平太郎は思わず、落ちていく箸を目で追った。

(戻れ!)

箸がふわりと浮かび、膳の上に戻った。


 新しいおもちゃをあてがわれたようなものだった。「念動」で目に見える物を動かせるようになった平太郎は、暇を見つけては他の物も動かすようになった。結果として、小石程度の重さなら自在に操れるようになる。たまに患者から魚を貰い、野良猫に狙われることもあったが、小石を礫にしてぶつけてやると被害はなくなった。「透視」で失せ物を探したり、「念動」で野良猫を追い払ったりと、自分の能力を使う場が身近な生活に限られている。平太郎にはそれでじゅうぶんだった。


 この「念動」は、何より施術に役立った。指圧は、指先の面積分を刺激するため、ピンポイントで刺激できる鍼に比べ効き目が遅い。前世でも、素人向けの指圧の本はあったが、鍼のはなかった。経絡や経穴を「透視」し、指圧する部位を鍼のイメージで念じながら指圧すれば、患者の治りも早くなる。患部全体の血行を「念動」で「後押し」することもあった。お年寄りの患者が増えるとともに、平太郎が年頃の娘も担当することも増えた。女性ならではの「血の道」つまり、月経等に伴う神経症状にも、効果があったのである。


 若い女性の患者を受け持つようになった平太郎は、自分の若さが余計な誤解を生むのを気にして、師匠に相談した。師匠の患者にお坊様がいたので話を持ちかけたところ、在家のままで修行する形を認められ、平太郎は頭を丸めることになる。僧形なら妻帯は認められない。余計な誤解を生むこともない。


もっとも、このお坊様のいる真言宗・西海寺は、かつてとんでもない美男の僧侶がいたことで知られている。周りの女性に言い寄られて修行に差し支えるようになり、頭から熱湯をかぶり顔を焼くことで、女難を避けたと伝えられている。それをつい話題にした平太郎に、

「平太郎の顔なら、そこまで騒がれることもなかろう」

という言葉が返ってきた。顔が不細工だと言われたようなものだ。平太郎は、そんな言い方で西海寺の天佑和尚に太鼓判を押された。確かに背は低いし、子供の頃からの鍛錬で首周りが太く、手足は短い。ともあれ、在家の修行僧らしく名前を変えようということになり「安針」を名乗ることになった。修行僧とはいえ鍼医でもある。「安んじる針」の使い手であれという名前だ。


 鷺庵の診療所は、西海寺山門に続く石段の脇にある。西海寺の檀家衆は、長い石段を上って寺に向かう。足腰の弱った信者が通うのに丁度いいのが、鷺庵の診療所というわけだ。施術の傍ら、平太郎も寺に通わせてもらうことになった。我流で続けてきた瞑想に磨きがかかったのは、言うまでも無い。


平太郎が特に好んだのは「月輪観」という瞑想。この瞑想で月をイメージすると、心がずいぶん落ち着くのだ。「透視」を使う際の映像もはっきりしてきた。ただ「念動」で動かせる物の重さについては、小石程度の大きさのままだった。平太郎の「念動」は、大きな力が出せない代わりに、小さい物を精密に動かすことはできるようだ。


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