最終章  7話  甲斐の蒼き鷹

 普段は鳥の鳴き声や、虫のささやきしか聞こえず、静寂が支配しているであろうその場所は、しかし、今や人馬の上げる嘶きや、鎧の音で静寂を破られていた。

 小高い丘の上にあるその場所には、多くの兵馬が並び、一際大きな陣幕が張られた場所には、武田家の家紋が刺繍ししゅうされていた。その丘から一望出来る対面の山には、北信濃の村上義清の治める難攻不落を誇る山城の砥石城の全貌が見えた。

 その陣幕の中では、武田家の当主である武田晴信を初め、稀代きだいの軍師、山本勘助、真田幸隆。さらに、武田家の重臣が連なっていた。ここは、再び砥石城を攻略に進撃して来た武田軍の本陣である。


此度こたびこそは、砥石城も落ちましょう……」


 晴信を囲み本陣内では軍議が開かれていた。その本陣に伝令の者が現れる。彼は一礼し、兜を脱ぐと右手をつき、主君晴信に用件を述べる。


「お館様。ご命令通り、お呼びの松本殿、まかり来られましてございます」


 伝令の言葉に晴信は、軍議の中断を宣言する。


「うむ。通せ」


 晴信の言葉を聞いた伝令は、一礼すると右回りでその場を退出した。しばらくして、陣内に一人の若武者が姿を現した。

 しかし、その若武者の出で立ちを見た晴信、勘助、幸隆を除く武田家の重臣からは、驚きの声があがる。若武者は軍議用に置いてある机を挟んで、晴信の対面に来ると、兜を脱ぎ、一礼すると右手をつく。


「松本鷹綱。お呼びにより、参上仕りました」


 若武者は自らの名前を言葉にすると、再び頭を下げる。未だに、驚きで呆気に取られている重臣達を尻目に、晴信は不適に笑みを浮かべる。


「どうしたのじゃ?鷹綱。その様に「蒼」一色に染まった鎧を身に着けて……」


 晴信の言葉に、重臣達はやっと自体を理解した。そして、重臣の一人が立ち上がると、鷹綱に向かい、大声で怒鳴りつける。


「我ら武田家には、飯富おぶ殿を中心とした、家臣団結を深める意味もある、勇猛果敢ゆうもうかかん赤揃あかぞろえの部隊があるではないか!お主!それを知らぬ訳ではあるまい!」


 武田家に置いて剛勇で知られる飯富虎昌おぶとらまさは「甲山の猛虎」の異名を持ち。彼の率いる部隊は全員が赤い軍装で揃えられ、彼の異名と同様に、赤揃えとして武田家の精鋭最強部隊の代名詞となり、後に実弟の山県昌景やまがたまさかげに引き継がれた赤揃えは、武田家の先鋒部隊として勇名をとどろかせる。

 後に三方ヶ原みかたがらはまの合戦では、徳川家康に死を覚悟させる程の被害を与える。

 その武田家の象徴とも言える赤揃えがありながら、しかし、鷹綱は「朱」では無く「蒼」に染まった鎧に身を包んでいたのである。重臣の怒りも当然の事であった。

 だが、鷹綱は彼に罵声を浴びせた重臣に軽く会釈を返し、再び晴信へと視線を向ける。


「お館様にお願いしたき事がございます」


「よかろう、申してみよ……」


「されば……。本日只今ただいまより、鷹綱、この蒼き鎧に身を包み、戦場へおもむきたく。お館様のお許しを頂戴ちょうだいいたしたい所存にござりまする」


 鷹綱は静かに晴信に告げると、再び頭を下げた。その鷹綱の言葉に、一同は静まり返っていたが、晴信が再び言葉を発した。


「先程の話の通り、我が武田家には飯富の赤揃え部隊がある。赤揃えは武田の精鋭部隊であると申してもよい。その赤揃えが在るのをお前が知らぬはずがない。何か考えのあっての事であろう。面白い、申してみよ」


 晴信は面白そうに笑みを浮かべると、鷹綱の言葉を待った。鷹綱も笑みを浮かべると、静かに語りだす。


「赤揃えの「朱」の中で、この蒼き鎧は目立ちます。されば、敵は我先にと、拙者を討ち取ろうとすると思われまする」


 鷹綱の言葉を聞いていた重臣の一人が再び立ち上がると、怒りに身を震わせ叫んだ。


「思い上がるな!其の方そのほう!敵の標的になっても勝てると申すか!身の程を知れ小僧!」


 怒りの形相を鷹綱に向ける重臣へと視線を向けた鷹綱は、不適にも笑みを浮かべる。


「まさに、敵も同じ様に思いましょう。さればこそ、拙者はその心理を逆手に取りたく思いまする」


「ほう……。逆手とな?」


 笑みを浮べたままの鷹綱に、晴信も楽しそうに聞き返した。鷹綱は晴信に答える。


「拙者はこれより先、人を守る為に剣を振るいたい所存でござりまする。敵が拙者を標的にして集中致せば、より多くの味方を、人を守る事が出来まする」


「ば・・馬鹿な!お主、気は確かか?気でも狂ったのではないか?」


 驚きの声を上げる重臣とは反対に、晴信は真顔に戻ると、再び鷹綱に問い掛けた。


「人………とな?」


 晴信の視線を真正面から受け止め、鷹綱も真剣な眼差しで答える。


「人は城、人は石垣、人は堀…。情けは味方。仇は敵なり……」


 鷹綱は静かに語る。その言葉にその場の人々が静かに晴信に視線を向けた、しばらく沈黙が流れたが、再び鷹綱が言葉を続ける。


「常日頃から、お館様が申しておられる言葉にございます。されば、鷹綱はこれより先は人を守りたい所存にござりまする」


 その言葉を口にした鷹綱と晴信はしばらく無言であった。沈黙が辺りを支配し、陣内に居並ぶ歴戦の猛者達も、固唾かたずを呑んで二人を見つめた。

 鷹綱自身が自ら話した理由が、理屈も何も無く、自分の屁理屈であり、我が儘である事は十分に理解していた。

 だが、それでも彼は自らの想いを貫き通したかったのである。最愛の人との約束を果たす為、そして、その約束を忘れる事の無い様にとを込めて。どれだけの時間が経ったか、晴信の口が歪むと、楽しそうに「ニヤリ」と笑みを浮かべた。


「かぶくか?鷹綱……」


 晴信の言葉に鷹綱は満面の笑みを浮かべ、愉快に、そして豪快に言い放った。


「はっ!松本鷹綱!一生に一度の大傾おおかぶきにござりまする!」


 彼の本来の年齢に相応しい、若々しい笑みを浮かべ、楽しそうに答える鷹綱の姿に、晴信や彼の側に控える、勘助と幸隆も笑みを浮かべていた。晴信は彼等に頷くと愉快に笑う。


「はははっ!よかろう!鷹綱、見事傾いてみせよ!」


「ははっ!」


「並びに、この度の合戦において、五十騎侍大将さむらいたいしょうに命じ、いくさ先鋒せんじんを命じる!春日弾正かすがだんじょう!」


「はっ!」


 晴信の言葉に驚いている鷹綱をそのままに、晴信に呼ばれた人物が立ち上がる。

 春日弾正忠昌信。後の高坂弾正忠昌信こうさかだんじょうのじょうまさのぶである。武田四名臣の一人。

 武勇にひいでる者が多い武田諸将にあって、彼は治世に高い手腕を有すると共に、非常に慎重で冷静な采配で、敵を深追いせず、引き際の見極めで「逃げの弾正」の異名で呼ばれた。大敵に当たる時には、彼の冷静さは武田家にとって必要であった。その彼に晴信はさらに言葉を続ける。


「お主が欲しがっておった、この戦での先鋒、即ち囮部隊の指揮官を預ける。作戦の説明をしっかりとしてやれよ?」


「ははっ、承知仕りました」


「鷹綱……」


「は……ははっ!」


 事の成り行きに、呆気に囚われていた鷹綱は、晴信の言葉に我に帰り、何とか返事を返す。


「お主には、わしと湖衣姫の命を救うてもろうた。その、褒美を取らす」


「い・・いえ、その様な……」


「ならぬ、大小それぞれあろうとも、手柄を立てた者への褒美は当たり前じゃ。されば」


 そこで言葉を切ると、晴信は立ち上がった。


「本日この時より、お主には桔梗の紋所もんどころの使用を許す!松本家の家紋かもんと致せ!」


 晴信から発せられた言葉を聞いた鷹綱の全身が、否、魂が震えた。

 彼の主である武田晴信は気がついていたのである。何故、鷹綱が「朱」では無く「蒼」の色を選んだかと言う理由にである。

 そして、その彼の想いに気がついた晴信は、彼の想いに最高の形で応えた。

 彼の最愛の人と同名の花である「桔梗」の紋所の使用の許可を……である。それは、鷹綱の主君である晴信でなければ与える事の出来ない名誉であった。その想いに鷹綱は魂の底から熱い物が込み上げて来る。


「行け……。甲斐の蒼き鷹よ。見事傾いて、人を守ってみせよ……」


 晴信の優しい言葉に鷹綱は顔を上げる。そこには晴信をはじめ、彼を優しい笑みで見守る武田家の重臣の姿があった。

 鷹綱は命尽きるまで晴信に、武田家に仕える事を、再びここに固く誓い、万感の想いを込めて返事を返した。


「身命に賭して……」


 再び頭を下げた鷹綱の頬を、熱い物が流れていた。

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