最終章  3話  真夜の笑顔

「かけまくも~畏き其の神の大前に恐み恐み申すしこみかしこみもう。天下の公民の取作る五穀ごごくを水穂の足穂に成幸へ給へとニニギノミコトに願えば、初穂を天照大神あまてらすおおみかみに捧げ祭り、豊穣ほうじょう願い奉り申す」


 おごそかに響いた声に、その場に居合わせた人々は静まり返り、彼等の前に組まれたやぐらへと視線を向ける。

 その視線の先にある櫓の上にはさらに祭壇さいだんが作られており、その祭壇の前には一人の巫女の姿があった。彼女が先程言葉に出していたのは、豊穣を祈願する祝詞であった。

 静かに目を開けた彼女は、ゆっくりと立ち上がると、後ろを振り返り、彼女を見つめる村人の方へと視線を向け、笑みを浮かべる。彼女を見つめる村人は息を呑んで彼女の言葉を待った。


「皆さん?そんなに怖い顔をしなくても、良いですよ?無事に豊穣祈願ほうじょうきがんは終わりました。安心して下さって良いです」


 彼女の口から発せられた優しい声色に、村人達は安堵し、喜び合うと、櫓の上から降りて来た巫女へと感謝の言葉を口々にする。村人の感謝の言葉に笑顔で答える巫女の名は「神崎真夜」といった。

 甲斐武田家の本拠地である甲府の神社に仕える巫女である。

 しかし、今居る場所は甲府では無かった。同じ甲斐国にある昇仙峡の近くにある小さな村である。その村の家々の間にある広場に組まれた櫓の周りには、老若男女問わず、村の者の殆どの人が集まっていた。

 真夜は村人に笑顔で言葉を交わしながら、彼女をこの村へと連れて来た張本人の姿を目で探した。しかし、村人に囲まれている為に、遠くまで見渡せなかった。


(まったく……。私に祈願を押し付けて、どこへ行ったのか……本当に困った人ですねぇ……)


 村人の感謝の気持ちに、内心の苦情を悟られまいと真夜は笑顔を浮かべていた。

 だが、今の彼女にはその笑顔を浮かべるのすら、久しぶりだった。彼女にとって再び大事な人が目の前から去ったのである。その悲劇から彼女は自責の念に捕らわれていた。自分がもう少し早くその場に駆けつけていれば……と。

 勿論、真夜の周りの人々や、彼女自身の前から去った人物である本人でさえ、真夜を責める者は一人もいない。それでも、真夜は考えてしまう。もう少し、数刻でも早く気が付いていればと……。


「おおおお!」


 少し物思いに浸っていた真夜は、村人の驚きの声に現実の世界へと引き戻される。村人達の視線は真夜から、驚きの声の上がった方向へと向けられる。何事かと口々にしながら村人は村の入り口方向へと視線を向けていた。真夜も背伸びをしてその方向へ視線を向けた。その瞬間、彼女の視線に入り込んで来たのは、獣の顔であった。


「えっ?ええ~?」


 村人の人垣を掻き分け、目の前に現れた獣の顔に真夜は驚きの声をあげる。


「ん?どうしたのだ、真夜?何事かあったのか?」


「えっ?け・・獣が言葉を……!?て、その声は?」


 獣の顔から声が聞こえたかと思ったが、その声は真夜の良く知る声であり、甲府の町に突然現れ彼女をこの村へと連れ出した張本人の声であった。落ち着いて見ると、それは猪の頭であり、その猪の頭が横に移動したかと思うと、猪を肩に担いだ一人の男が姿を現した。


「何をしているんですか?鷹兄さん?」


 呆れ声で問いただす真夜に、鷹綱は笑顔で答える。


「いや、何。これから始まる祭りの為にと思ってな。村の狩人に案内してもらって、猪を狩って来たのだ。どうだ?見事だろう?」


「そんな事は見ればわかります……。私を置いて猪狩りに行っていたとは……」


 ため息をつく真夜を、楽しそうに鷹綱は見つめていた。その視線に真夜は気が付く。


「何か私の顔についていますか?」


 真夜の問いかけに優しい笑顔を向けると、鷹綱は振り返り叫んだ。


「さぁ!皆の衆!真夜の祈願も終わった!今宵は大いに騒ごう!これは、その馳走ちそうだ!皆、遠慮なくやってくれ!」


 鷹綱の号令に、村人の若者は大歓声で答える。彼の担いでいた猪は村人の手へと渡り、村の女達や狩人の手でさばかれていく。その光景を満足そうに眺めていた鷹綱は、再び真夜の方へと向き直った。


「鷹兄さん……。私の質問を無視するなんて、良い度胸ですねぇ……」


 眉間にしわを寄せ、不適な笑みを浮かべる真夜に、鷹綱は悪戯っぽく笑うと、いきなり真夜の両頬を掴む。そして、頬を思いっきりつねる。


「こらこら、そんな怖い笑顔でどうする?先程の村人達へ向けた笑顔はどうした?」


「いひぁい!いひゃいれすよ!ひゃかひいさん!」


「どうだ?ちゃんと笑うと約束いたすか?」


「わ・・わひゃりました!」


 真夜の返事に満足気に頷くと、鷹綱は彼女を解放した。赤く染まった両頬をさすりながら、真夜は涙目になって鷹綱を睨む。


「鷹兄さん!いったい、どう言う……」

「愛想笑いでも、笑顔は気持ち良いであろう、真夜?」


 真夜の言葉を遮って鷹綱が言葉を出した。その言葉に真夜は言葉が出せない。


「見よ。真夜の祈願で村人にも笑顔が戻った。これから始まる祝いと鎮魂ちんこんの祭りも十分に楽しんでくれるであろうよ」


 そう言って鷹綱は周囲を見渡すと、村人は思い思いに、笑顔で祭りの準備に取り掛かる。


「拙者がこの村に来た時は、皆、不安に捕らわれておった……。それが笑顔を取り戻した。それは、真夜の祈願と笑顔のお陰だ」


 そこまで話すと、再び鷹綱は真夜に向き直り、優しく微笑む。


「真夜の笑顔にはそれだけの魅力と力がある……だから、真夜は笑っていろ……」


 鷹綱の言葉に真夜は目を見開いて彼を見つめ返した。そんな彼女に頭を大きく暖かい手が包み込む。そして優しく撫でられる。その行為に真夜は救われる気持ちになる。

 思い返せば、真夜が幼い頃から落ち込んだ時は、鷹綱はいつもどこかへ連れ出し、真夜の悩みが消えるまで連れ回し元気付けた。

 その度に、彼女は笑顔を取り戻したのである。仁が戦で亡くなった時も鷹綱が塞ぎ込む真夜を連れ出し、それに天波やエルヴィスも加わって大騒ぎをした。



(本当に……鷹兄さんは優しいですよね?仁兄さん……桔梗姉さん……)


 目を瞑り、彼女は心の中で彼女の大事な人達に話しかけた、彼女の頬を風が優しく撫でる。想い描いた大事な人達は優しく微笑んでいた。真夜は心の中で微笑み返す。

 しばらくして、彼女は目を開け、指で目の端の涙を拭き取ると、自らが一番辛い思いをしているはずであるのに、自分の事よりも他人の事を第一に考える、優しさに溢れた鷹綱に微笑み返した。


「私の笑顔に、鷹兄さんが恋してしまっても、知りませんよ?」


 涙を浮かべながら、それでも心から微笑む真夜に、鷹綱は安心して微笑む。


「それでこそ、真夜だな」


 そんな二人の側に笑顔を浮かべ、楽しそうに村人達が近づく、気が付けば、どこからともなく祭囃子まつりばやしが聞こえてくる。村の広場に組まれた櫓を中心に村人は輪を作り、それぞれに踊り歌い、楽しんでいた。笑い声が周囲に溢れていた。


「ささ、鷹綱様も巫女様も、ご一緒に楽しみましょう」


 村人が陽気に踊りながら、鷹綱達に酒を勧める。そして杯を受けたのは真夜であった。


「巫女様も、本日は有難う御座いました。さぁ、どうぞ」


 村の女達が真夜に酒を注ぐ。その光景に顔を青くする人物がいた。


「ま・・待て!真夜に酒は……!!」


 慌てて止めようとする鷹綱の目の前で、「えい」と一言発して真夜は杯の酒を飲み干した。


「ま・・真夜?」


 鷹綱は恐る恐る真夜に声をかけた。真夜は一気に顔を真っ赤にさせ、満面の笑みを浮かべると、鷹綱に言い放った。


「こらぁ~たらつなぁ~。そこに直れ~わらしのぉ~酒が飲めないのかあぁ~」


 その言葉に鷹綱はため息を吐き、天を仰いだのであった。真夜は酒に滅法弱い。新年の甘酒でさえ、彼女は一杯で酔ってしまうのである。


「おぅおう!たかりぃ~さん。そこに正座しらさい!」


「真夜、やはり酔っておるのか?」


 苦笑を浮かべ真夜に問いかける鷹綱に、真夜は再び満面の笑みを浮かべる。


「わらしはぁ~酔ってなんかぁ、ふふふ……。いませんよぉ~?」


「いや、明らかに酔っておるぞ?」


 そんな二人の背後から、村人とは違う人物が近づく。


「鷹!鷹!楽しそうにやっておる様じゃの?何じゃ何じゃ?これは、わしを歓迎する祭りの?いやはや、人気者は何処へ行っても辛いの!」


「全く、人が心配して来てみれば……」


 背後から聞こえて来た懐かしい声に、鷹綱は振り返る。思った通りにそこに立つ人物に声をかける。二人は楽しそうに笑顔を浮かべていた。


「おお!寛大にエル!丁度良い所に来た!」


 だが、鷹綱が声をかけた瞬間。彼等の表情が凍りついた。


「鷹、お前、真夜に酒を……?」


「こりゃ、やばい!見つかる前に退散じゃの!」


 鷹綱の背後に居る真夜の様子に気がついた二人は、慌てて踵を返した。しかし、彼等が一歩踏み出そうとしたその時、彼等の襟首を小さな手が掴み、背後から声がかけられる。


「あれぇ~。天兄さんに、変態忍者さんじゃらいですかぁ~。おやおや~?どちらに向かうつもりらんですかねぇ~。わらしに背をむけてぇ~」


 真夜の声に苦笑を浮かべると、二人はゆっくりと振り返る。二人の笑顔は引きつっていた。


「真夜、息災そうで何よりだ……」


「いやいや、あちらで村娘が、どうしても!と、わしを呼んでおっての」


「ふふふ……」


 しかし、二人の言葉は真夜の笑みの前では無力であった。


「二人とも~わらしのお酒を飲むまではぁ~逃がしませんよ?もちろん~」


 そこまで言うと、真夜は再び振り返る。そこには、こっそりと逃げ出そうとしていた鷹綱の姿があったが、彼は背後に視線を感じて立ち止まる。


「たかりぃ~さんも、です!」


 真夜の言葉に鷹綱も苦笑を浮かべ振り返る。満面の笑みを浮かべる真夜の周りで、歴戦の武士である男三人衆は、目で合図を送ると、ため息をついた。そんな彼等の心情とは裏腹に、村人達の踊りは盛況を増し、広場は喜びに満ち溢れていた。

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