最終章  2話  男前のエルヴィス

 優しい風が、青く深い湖面の上で楽しそうに舞う。

 湖面の上では何者も風の邪魔はしない。自由に踊る風達は、やがて湖の湖岸まで辿り着くと、湖岸で座り込む人物を優しく抱擁すると、再び自由に空へと舞い上がって行った。

 釣り糸を垂らし、座り込む人物に人影がゆっくりと近づく。そして、釣り人の側まで来ると、視線を湖面に向ける。


「何が、釣れますかの?」


 釣り人に近づいて来た人物は、視線をそのままに声をかけた。釣り人も微動もしないまま、視線を湖面に向けたまま答える。


「大物を……。狙ってござりますれば……」


「ほう。大物狙いでございますか?それは?」


 釣り人の答えに、質問を投げかけた人物は視線を湖面から、釣り人へと首だけを向けて視線を移した。その問いに、釣り人は視線を上げ、真っ直ぐに正面を向いたまま答えた。


「左様。この先に在る砥石城にござる……」


 釣り人の視線の遥か先には、北信濃の村上義清が治める難攻不落の砥石城が在る。その視線を追う様に、問い掛けた人物も正面を向く。


「これは、これは、大層な大物狙いのようでござるが……。果たして釣れますかな?」


左様さよう……。世間は釣れぬ。と思うやも、しれませぬな……」


「では、諦めた方が、貴方様あなたさまの為と、愚考ぐこう致しますが?」


 少し皮肉のもった声で再び釣り人に問いかける。しかし、釣り人は笑みを浮かべた。


「まさに愚考……だな」


 釣り人の声は、先程までの優しい声色から、鋭い声色に変化した。その変化に問い掛けた人物は、驚きと怒りの入り混じった声で言い返す。


「あの一年前の大敗をお忘れか?武田家は難攻不落の砥石城に、散々に蹴散えちらされたではないか!またも、同じ事を繰り返す所存しょぞんであろう?それを愚考と申さずして何とする!」


 釣り人は視線を上げ、問い掛けた人物を見上げる。その顔には笑みさえ浮かべている。


「難攻不落なれば……人がおごり高ぶり、そこに隙が出来る。その隙を見つければ、いとも容易く城は落ちる。難攻不落と申すが、それは誰が言い始めた事か?驕る人であろう?されば、その難攻不落を崩すのは、やはり人よ。何事も形在る物はいずれ消え去る。世の常だ……」


 そこまで一気に話すと、釣り人は真顔になる。


「この真田幸隆さなだゆきたか。いや、我が主。武田晴信様は二度と負けわせぬ……」



 その視線を受けた相手は、身動き一つ出来なかった。全身に流れる冷や汗を感じる。真田弾正忠幸隆さなだだんじょうのじょうゆきたか。後に武田二十四将に名を残す、真田一族の祖である。真田昌幸さなだまさゆきの父であり、真田信繁(幸村)さなだのぶしげ ゆきむらの祖父でもある。


 武勇知略に優れ、その武略を晴信から高く評価されていた。「攻め弾正」の異名を持つ。


「お主にここへ来てもらったのは他でもない」


 幸隆は視線を再び正面へと向ける。そして、静かに言い放った。


「選ばせてやろうと思うてな。お主が歴史に名を残すのは、どちらが良いかな?真田幸隆に与した利口者か……」


 そこまで話すと、幸隆は視線を彼の側に佇む人物に向き直した。


「それとも、真田幸隆に逆らいし愚者としてか……。遠慮いたすな、選べ」


 幸隆の最後の言葉を聞いた途端、彼の視線の先で相手は「すとん」と崩れ落ちた。全身を震わせていたが、やっとの思いで言葉を絞り出す。


「しょ・・承知した……。幸隆殿に協力致す……」


 そこ言葉を聞いた幸隆は、満面の笑みを浮かべる。


「左様……。お主の選択は間違えてはおらぬ。良き返答であると思う。さて、この書状に連名致してもらえぬかの?」


 幸隆は懐から一枚の書状を取り出した。武田家の砥石城攻略に関する、砥石城の内通者の血判状けっぱんじょうであった。その連署に上がっている名前を見て、彼は驚きの表情を浮かべる。


「こ・・これ程の数の者が……これでは、砥石城は……」


「で、あるから申したではないか、お主の選択は正しい……と」


 震える手で血判状に署名した相手は、逃げる様にその場から立ち去った。その彼を見送った後に、再び幸隆に近づく影が現れる。

 だが、その影が幸隆の近くに来た瞬間、その人影に目掛けてさらに数個の影が取り囲んだ。近づいて来た人影――天波寛大は――彼を取り囲む影の一つに、笑みを浮かべて挨拶する。


「真面目に働いている様だな」


 その問いかけに、影は覆面の下に笑みを浮かべ答える。


「当たり前じゃの。わしは、いつも真面目に働いておるからの」


「どの口が申しておるのか……」


「そりゃ~お前、この美人がほっておけない、美しい口がよ」


「軽口だけは、天下一品だな」


 二人のやり取りにその場も者は笑みを浮かべる。


「頭。こいつはわしの幼馴染の天波寛大で、武田家の者であるようじゃの」


「あるようじゃの?何じゃその申し様は、この変態忍者」


「む!いつも寛大は、わしを「男前のエルヴィス」と呼ぶはず……。やはり、お前、寛大に化けた偽者じゃな!」


 寛大を含め、その場に居た全員が大きくため息をついた。ただ一人、楽しそうに笑みを浮かべて近づいて来る人物を覗いて。


「それで、天波とやら。それがしに何ぞ用でも?」


 近づいて来た人物は、幸隆であった。天波は彼の正面に向かい、方膝をつくと頭を垂れる。

 エルヴィスを始め、幸隆警護の忍達も幸隆を囲む様にして方膝をつく。天波は懐から大事そうに山本勘助から預かった手紙を出すと、幸隆に手渡す。


「昨日より、三日の後……。本日から二日後には、横穴は完成するとの仰せでありました」


 書状を開いて目を通していた幸隆は、大きく頷くと天波に労いの言葉をかける。


「勘助殿も準備が整った様だな。某の村上の切り崩しも、丁度、最後の一人が落ちた所よ。良い頃合いであった」


「されば、男前のエルヴィスと申したか?」


 幸隆の冗談にエルヴィス以外の者は笑みを浮かべる。だが、不適にもエルヴィス自身も笑みを浮かべ、大きく頷く。


「男前のエルヴィスにございます」


「ふっ、お館様の申す通り、面白き奴よ。お主はこのまま天波と行動を共に致せ」


「承知……」


「天波にエルヴィス。砥石は落ちる。再びお主達の友が立ち上がるには、丁度良い……いや、またとない舞台であろう。急ぎ連れ戻せよ?」


 幸隆の言葉に感謝の思いを込めて、二人は頭を垂れた。そして、すぐに彼等は旅立った。彼等の親友であり、戦友でもある友。松本鷹綱の居場所へと……である。

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