最終章  蒼き鷹

最終章  1話  天波と隻眼の軍師

 一歩先に進めば、そこから奈落ならくの底へと落とされるのではないかと錯覚すら覚えてしまう。彼は包まれていた。

 闇にで、ある。

 明かりも無く、闇に包まれている為か、自らの方向感覚、視覚すらも奪われ、右手に感じる岩肌の感覚を頼りに下へと彼は進んでいた。

 だが、それでも正しく目的の場所へと向かっているのか、全くの不安が無いとは言えなかった。時折、はかなく光る蛍の光の様に、通路を蝋燭ろうそくの火が燈していた。

 しかし、その蝋燭の灯りは、彼が進ん行く方向のみを照らし、彼の背後。つまり、この人工の地下道の入り口方向には、灯りが漏れないように工夫がされていた。

 人が二人しか並ぶ事が出来そうにない、狭い通路を下へと進む男の名は「天波寛大」だった。甲斐守護職武田晴信に仕える侍である。


「地獄への道があるとすれば、この様な場所か……」


 がらにも無い言葉を発した自分への自嘲じちょうの笑みを天波は浮かべた。

 先程の様な言葉は、彼の親友が良く口に出し、また真っ直ぐな性格の彼に良く似合っていると天波は思った。

 その親友を襲った悲劇から半月が過ぎていた。彼の姿は未だに甲府の町には無い。天波自身も少なからず心を痛め、忘れる事の出来ない悲劇であったが、急な任務に就き、親友の行方を捜せずに居た。

 だが、彼は親友の帰還を信じて疑っていなかった。彼の親友が、天波自身や彼等の仲間を裏切る事は今までも、恐らくこの先も決して無いであろう。自分とは全く性格の違う親友を、彼は心から信頼していた。

 普段は自らの性格の為か口には出せないでいたが、その親友は言葉を必要としないほど、天波の性格も理解し、信じてくれていた。そんな事を考えて進んでいたせいか、いつのまにか、明るく照らされた少し広い部屋に着いた。目的の場所である。

 部屋の位置は地下深くある為、灯りが外へ漏れる心配もなく、蝋燭の光に包まれていた。

 その部屋の中央に机が置いてあり。その上に恐らくこの通路の見取り図であろう、地図の様な紙が開いてあった。天波が机に視線を向けていると、彼の立つ反対側の通路。さらに奥へと続く通路から、片足を引きずる様にして歩く音が響いて来た。天波は机から視線を上げると、通路から現れた人物に一礼する。彼をこの場所に呼び出した張本人である。


「そこもとが、天波と申す者か?」


「天波寛大にございます」


「左様か。いや~良く来た。警護のお主を急に呼び出して、すまぬな~」


「いえ、お気になさらず」


 そう言って天波は頭を上げ、目の前の人物へ視線を向ける。彼の目の前に立つ人物は左目に大きな傷跡があり、その傷の為に片目は光を失い、また、先程の独特な足音の通り、片足が不自由なのか、右肩が少し下へと下がっており、その風采は決して良くは無かった。

 だが、天波を始め、武田家中で彼の存在を知らない者はいない。天波の前に立つ人物こそ、諸国を流浪し、剣術や軍学を修め、得意の軍略で武田家に多大な勝利をもたらす天才肌の名軍師、山本勘助信幸やまもとかんすけのぶゆきであった。

 天波も勘助の存在は知ってはいたが、直接会うのは初めてだった。


「お主をここへ呼んだのは、他でもない。少し頼み事があっての。お主、「韋駄天いだてんの寛大」と呼ばれておるそうじゃな?」


「はぁ?」


 突然の思いも寄らない勘助の問いに、天波は彼には珍しく驚きの声をあげる。


「本人の意思がそこにあるか……と申されますと、いささか不本意でありますが……」


 しかし、すぐに落ち着きを取り戻すと、彼はやや皮肉を込めて言葉に出した。彼は確かに味方や親しい間の仲間から、その俊足にちなみ「韋駄天の寛大」等と呼ばれる事がある。確かに彼は俊足である。

 だが、彼はただ足が速いだけではなく、移動先の地理や地形を事前によく調べ、最短距離を割り出し、その道筋を頭に叩き込んで村々や街、あるいは国へと移動するのである。

 その努力を理解していない輩から、ただ俊足のみと思われて付けられた通り名は彼の本意では無かったが、別段、気にする事もなかったし、彼の努力を親友達は理解してくれていたので、言わせるままにしていた。

 それが、まさかこの様な大物の耳にまで届いていようとは、人の噂は恐ろしい物だと、改めて天波は心に刻んだ。


「はははは。そうか?まぁ、その通り名の事はよいとして……。お主が早足なのは、真で在る事には違いないであろう?お主に頼みたい事と申すのは、この親書を諏訪湖周辺に居られる真田殿に届けてくれまいか?」


 そう言って勘助は懐から一通の手紙を出した。それを天波に手渡す。


「三日の後……。この横穴は完成致す。そう伝えて参れ」


 天波が下って来た人工の横穴は、難攻不落なんこうふらくの山城であり、彼の大事な親友の一人である神崎仁が戦死し、武田家にとっても忌まわしい敗戦の傷がまだ癒えぬ、砥石城へと続いているのである。

 正攻法での攻撃の愚を、多くの将兵の死で学んだ武田晴信がとった新たな砥石城の攻略の一つであった。

 軍略と共に勘助の得意とする築城術を駆使し、砥石城の横腹まで地下の人工の通路を作り出し、囮部隊の突撃と共に、この横穴から精鋭部隊の奇襲作戦を同時進行させる作戦であった。

 天波はこの人工地下通路の工事を行っている地上部分、即ち入り口周辺の警護の任にあたっていた。


真田幸隆さなだゆきたか様に……でござりますか?」


「そうじゃ~。お主も存じておろう?」


勿論もちろんにございます。面識はございませんが……」


「では、良い機会じゃ。お主も真田殿と顔見知りになっておけ。よいぞ~真田殿は。面識を得て、損は無い御仁ごじんじゃからな」


「がはははっ」と顔を引きつらせ不気味な笑い声で勘助は楽しそうに笑った。その笑い顔と笑い声に、天波は苦笑で答えた。


「それから、真田殿に手紙と伝言を伝えた後は、あの、何とか申したな……。が真田殿の護衛の任に付いておるゆえ、合流した後に、二人でこの場所の村へと参ってくれぬか?」


 勘助はそう言って再び懐から一枚の紙を取り出した。勘助の言葉に出た忍に心当たりが大いに在る天波は、少しため息を漏らすと、勘助から最初に預かった新書を大事に自らの懐に仕舞い込む。そして、再び勘助から紙を受け取った。素早くその文面を読み取る。


「これは?」


「何、そこへ行けば、理由はわかる。まぁ、それは親書を送り届けてくれるお礼じゃ。楽しみに行ってみるとよい」


 勘助は再び不気味に愉快そうに笑った。親書を送り届けるのは、恐らく天波だけでは無い。


 同じ文面、あるいは彼の持つ親書は偽者である可能性が高い。いくつもの使者を立て、敵を欺き、情報を味方へと届けるはずである。

 そして、武田家の軍師である勘助の命令は、天波には断る事も出来ず、さらに褒美などと言われる事など無いはずである。そんな天波の疑問を勘助は見過した様に言葉を続けた。


「お主の親書が本物で在る可能性も捨てきれぬぞ?」


 不適に笑みを浮かべ、勘助は天波に視線を向けた。その視線に天波は寒気を感じた。彼は常日頃から感情を表に出すことはまれである。努めて表に出さない様にしている所も在り。彼の心情が読み取られる事は滅多に無いのである。

 それを、いとも簡単に見抜く目の前の人物に天波は畏怖を感じずには居られなかった。勘助は可笑しそうに笑い出す。天波は内心の動揺を悟られまいと努力したが、背中に冷たい汗が流れるのは止められなかった。


(俺もまだまだ……と言った所だな……なぁ、おい?)


 目の前の人物に虚勢を張るのを諦めた天波は、苦笑を浮かべ心で彼の親友に語りかけた。


「ほう~なかなか、良い笑みじゃな~。まぁ、騙されたと思うて、そこへ参れ。そして、その場所に居る人物を連れ戻すのが、お主達の使命じゃ」


 その言葉に天波は全てを理解した。勘助は全てを語った訳で無い。だが、天波が最も知りたいと思う情報を口に出したのである。


「お館様と湖衣姫様も心配されておられる。この度の合戦には出陣の下知も下ろう」


委細承知仕いさいしょうつかまつりました。」


 嬉しそうに微笑む勘助に天波は深々と一礼した。その時すでに彼の頭の中では諏訪湖までの最短距離が浮かび上がっていたのであった。

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