第四章  5話  運命の幕開け

 その日は、雲一つ無い蒼天であった。見渡す限りの蒼い空に、数日前に見た諏訪湖の景色を思い浮かべる。

 しばらく思いに浸っていた鷹綱は視線を再び手元に戻す。そこには自らの命を共に懸けるべき友に親しい彼の愛刀が握られていた。

 だが、今は戦いを行っているのではなかった、先日の鬼退治から帰宅した翌日に、帰参の報告に躑躅ヶ崎館へと足を向けると、鬼退治の功労を労う宴への参加を申し付けられたのである。それが今日であり、その宴までの空いた時間を利用して、刀の手入れをしているのであった。縁側に腰を据えて丹念に手入れを行っていた為、彼に近づく影に気がつかないでいた。


「あにさま……。兄さま……」


 鷹綱を兄と呼ぶ声が聞こえたが、肝心の彼は手入れの最後の仕上げに集中し気が付かない。


「兄上様!」


 大声で叫ぶと鷹綱はやっと声に気が付いた様に、声の主に視線を向ける。


「どうした、あずさ?大声を出さずとも聞こえておるぞ?」


「聞こえておられるのなら、ちゃんと返事をしてくださいまし……」


 あずさと呼ばれた少女は、両の頬を膨らませて非難の声を返す。少女が話す言葉使いは大人びているが、その仕草はやはりまだ無垢な少女の年齢に相応しかった。


「あ~いや、すまぬ、ちと手が離せなくてな……。それで、どうかしたのか?」


「まったく、兄さまは本当に一つの事に集中すると、いつも周りが見え無くなるので、困ってしまいます……」


 ため息混じりに言葉を続けるあずさに、鷹綱は優しい笑みを浮かべる。


「そなた、言い様が、母上に似て来たな?」


「兄さまに手がかかって、苦労しておるからです!」


 憎まれ口とは裏腹に、母に似ていると言われたのが少女には嬉しかった様であった。まだ、幼さの残る少女は、鷹綱の末の妹で名を「あずさ」と言った。

 幼き日に両親を失っているので、ほとんど母の温もりを知らない。それでも、素直に育ってくれたものだと鷹綱は嬉しく思う。


「愚兄を許せよ。なるべく、手がかからぬ様にいたすゆえ」


「べ・・別に、兄さまの世話を焼くのが嫌と、申しているのでは、ありません……」


 慌てて言い返す妹の姿に微笑むと、鷹綱はあずさの頭を撫でる。


「兄さま……」


 少し照れたように目を瞑って、鷹綱に頭を撫でられていたあずさだったが。


「はっ!和んでいる場合ではありませんでした!兄さま。お客様ですよ?」


「客?」


「はい、それも女性の方です……」


「女性?」


「はい。それも綺麗なお方です。おそらく、さまですね」


「桔梗が来ておるのか?」


 甲府に戻って城での別れ際に、この屋敷の場所は桔梗に教えていたので、桔梗が尋ねて来るのは不思議な事では無く思えたが、今宵の宴には桔梗も参加するはずなので、そこで再会出来ると思っていた。が。桔梗が尋ねて来た疑問より、別の疑問が浮かび上がる。


「俺はあずさに桔梗の事を話したか?」


 別に隠していた訳ではないが、桔梗の事をまだ話していなかった事に気が付く。鷹綱の疑問の言葉を聴いて、彼の妹は可笑しそうに笑う。


「兄さま。私の情報網を甘くみてもらっては、困りますよ?」


 勝ち誇った様に言い返すあずさの背後に、別の人物の笑い顔が重なる。


「鷹兄さん?隠し事はよくないですね」


(真夜か……)


 一瞬、目眩がした気がして、鷹綱は片手で頭を支えた。その仕草が可笑しくて仕方が無いとあずさは笑いを浮かべる。


(あずさと真夜が手を組むと、やはり末恐ろしい……な)


「さてさて、兄さま。いつまでもお客様をお待たせも出来ません。こちらの、勝手口に回っていただきますか?」


「ああ、悪いがそうしてもらってくれ」


合点承知がってんしょうちいたしました!」


 普段の彼女らしからぬ返事に、鷹綱は再びため息が出る。


(ああ……あの返事は確実に真夜の真似だな……)


 兄の心配を他所に、あずさは駆け出して行った。しばらく間があって、鷹綱の座る縁側に面した庭にある勝手口の扉が開いた。だが、扉が開いただけで、そこには誰も居ない。

 再びしばらくの間、その場所を凝視していた鷹綱が、立ち上がろうとした瞬間に「ひょこ」と扉の影から顔が覗いた。

 顔だけを覗かせている人物は、間違い無く桔梗であった。桔梗は顔だけは扉から出してはいるが、そこに隠れているだけで、中に入って来る気配が無い。


「どうしたのだ?桔梗?」


「ひ・・・久しぶりだな。鷹綱殿」


「いや、城で別れて三日目だ。久しぶり。と言う程でも無いと思うぞ?」


「そ・・・・そう。だな……。きょ・・今日は良い天気だな」


「ああ、良い天気だ。桔梗に教えてもらった諏訪湖の景色を思い出しておった」


「そそ・・そうか。それは教えた甲斐があった」


 会話は成立しているが、桔梗がこの様にしどろもどろになる時は、大抵は何か言い難い事があるか、照れている場合が多い。それで鷹綱は助け舟を出すことにする。


「桔梗?何を遠慮しておるのだ?気にせず入って来たらよいぞ?」


「あ・・うん。わ・・笑わぬか?」


 笑顔の鷹綱に、桔梗は慌てながら問い返した。


「ん?何をだ?」


 桔梗の問いに皆目検討がつかない鷹綱は、素直に聞き返した。


「よ・・よいから!笑わぬか!」


 鷹綱の返事に、桔梗は声を荒げて再び問い返す。その剣幕に驚いて鷹綱は答える。


「あ・・ああ。よく分からぬが、笑わぬよ」


「よし!」


 鷹綱の返答に、桔梗は気合の声をあげ、自らを何度も鼓舞し、やっと扉の影から姿を現したのであった。

 桔梗は薄い桜色の美しい着物に身を包んでいた。その着物は桔梗の黒く美しく長い髪に良く合っていた。桔梗は恥ずかしそうに頬を染めて俯いていた。

 その姿と仕草に、鷹綱は息を呑んで見つめていた。桔梗は左手を胸の前に出し、握り拳を作り、勇気を振り絞る様に言葉を出した。


「お・・お館様が、鬼退治の労を労って下さる宴を催して下さるでしょ?それで、その宴に参加される鷹綱殿を迎えに参ったのです……」


 一気にそこまで話すと、桔梗は視線を鷹綱に向けた。鷹綱は縁側に座って居た為、桔梗と目線が丁度同じ高さになっていた。その為、しばらくの間二人は見詰め合っていた。それでも何も言わない鷹綱に、桔梗は少し肩を落として言葉を続けた。


「やはり……。この様な格好は、私には似合わぬ……よな?」


 しょんぼりと落ち込んだ桔梗の言葉に、やっと我に返った鷹綱は慌てて否定する。


「あ~いやいや!すまぬ!余りに突然の事ゆえ、驚いたが、その、良く似合っている。息を忘れる程、見惚れてしまっただけだ。綺麗だぞ」


「本当か?」


 鷹綱の言葉に赤面してはいるが、桔梗は問いただした。


「睨むな、睨むな。嘘は言わんよ」


 少し苦笑を浮かべた後に、優しく微笑むと鷹綱はゆっくりと言葉を返した。


「はぁ~~良かったぁ~~」


 全身の力を抜き、左手で胸を撫で下ろすと、桔梗は安堵の言葉を出す。その仕草に鷹綱は自然と笑みがこぼれた。


「では、拙者も支度をいたそう。少しだけ待ってもらえるかな?」


「ああ、もちろんだとも」


「真夜は参加出来ぬらしいが、とりあえず、寛大達とは真夜の仕える神社で待ち合わせしていてな。一緒に向かうといたそう」


「あ・・天波殿や、エル殿や真夜ちゃんに会うのか?この格好で?」


「ん?何か不都合でも?」


「いや、何と申すか……」


 再び歯切れの悪くなった桔梗の頭を、鷹綱の大きな手が優しく包み込んだ。


「大丈夫。自信を持って良いと思うぞ?先程、申した通り。その着物は桔梗に良く似合っておるよ。見惚れたのも嘘ではないと、申したはずじゃぞ?信じてくれぬか?」


 ゆっくりと頭を撫でられ、優しい瞳で鷹綱は桔梗に言葉をかけた、それだけで、桔梗の心は落ち着きを取り戻した。


「そうだな……。世の人々に認めて貰えなくても、鷹綱殿一人に褒められるだけで十分だ……」


 満面の笑みで桔梗は答えた。その言葉に今度は鷹綱が赤面する。


(いやはや、降参だな……これは……)


 鷹綱は内心を悟られまいと、わざと大げさに桔梗の頭を撫でる。


「あっ!こらっ!やめろ!鷹綱殿!髪が!こらぁ!」


 桔梗も楽しそうに笑い声をあげ、鷹綱の手から逃れようとする。楽しそうな二人の背後に再び影が現れる。

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