第四章  4話  晴信と湖衣姫

 鷹綱を見送った桔梗は、門衛に身分と氏名を名乗る。館内に入った桔梗は自らの仕える湖衣姫の元へと帰参きさんの報告をするべく、躑躅ヶ崎館近くにある湖衣姫の住む館へと足を向ける。

 側室である湖衣姫の屋敷は、躑躅ヶ崎舘の近場にある為、桔梗は馬を馬屋に繋ぐと、一度、門から表へ出る、そしてそのまま徒歩で向かう。

 途中、同じく湖衣姫に仕える女中に出会った桔梗は、彼女らの好意に甘える形で先に湯で身体の汚れを落とし、屋敷内に与えられた自らの部屋で着替えを済ますと、湖衣姫へと会いに行く。


「桔梗、只今参りました」


 湖衣姫に与えられた屋敷の中でも、一際大きな部屋の前まで来ると桔梗は片膝をつくと、襖越しに声をかけた。


「待っていましたよ。お入りなさい……」


 桔梗の言葉への返事が襖の中から聞こえた。その声は美しく優しさに包まれていた。


「失礼いたします」


 桔梗はその返答に一礼すると、襖を開け、その場で深々と中へと頭を下る。

 それから部屋の中へと入り、側に置いてあった木の器を手に取り、再び自らの横へ置くと素早く襖を閉め、正座し姿勢を正すと正面を向いた。

 彼女の視線の先には美しい着物を見に包んだ黒髪の美しい女性が穏やかな笑顔を浮かべていた。その女性の右隣には上座があり、一段高くなった場所があった。そこに畏怖いふ威厳いげんをまとった一人の男が鎮座ちんざしていた。


「桔梗、只今、帰参致きさんいたしました」


 桔梗は再び自らの眼前に座る、二人の人物に深々と頭を下げる。


「お帰りなさい、桔梗。随分と久しいですね……」


 黒髪の美しい女性は優しく微笑むと、桔梗へ声をかける。その女性こそ桔梗の仕える相手である湖衣姫であった。年齢は桔梗と変わらぬが、穏やかな物腰や、美しい衣服に身を包み、そして全身から滲み出る雰囲気は、高貴な身分である事が一目で理解出来た。


「はい。この度は、私の願いを聞いて頂きまして。鬼退治の試練。見事に果たせる事が出来ました」


 桔梗は頭を下げたままの姿勢で返答する。


「ははははっ!見事、鬼を退治して参ったか!桔梗!」


 桔梗の返答に豪快な笑い声で答えたのは、上座に座る男。甲斐の守護職しゅごしょく武田晴信であった。


「お館様にあらせられましては、ご機嫌麗きげんうるわしく……」


「そうかしこまらずとも、よいよい!」


 平伏したままの桔梗に、豪快な笑い声で答えた。その返答に桔梗は頭を上げ姿勢を戻した。


「お館様、湖衣姫様に、ご検分して頂き物がございます」


「うむ、存分に検分してくれる。見せてみよ」


「はい……」


 晴信の返答を待って桔梗は自らの側に置いてあった木の器を手にすると、器を高々と上げ、自らは頭を下げた状態で晴信の眼前に行き、その器を置くと数歩下がり、再び平伏する。


「鬼退治の戦利品と申しますか、鬼の角でございます……」


 木の器の上には和紙が敷いてあり。その上には鬼の角が二本置いてあった。


「鬼の角か。桔梗、見事である!実に愉快じゃ。なかなかの姫武者ぶりじゃな。そうは思わぬか?湖衣?」


「まったく、無茶をして……。心配しましたよ?無事で何よりです……」


 愉快そうに笑う晴信の側で、苦笑を浮かべつつ、桔梗の無事を心から喜んでいる湖衣姫が優しい声音で話かける。


「勿体なき、お言葉です……」


 桔梗は湖衣姫の優しさに感謝しつつ、この心優しい姫に心配させた事に心が痛んだ。


「そなた一人で鬼と戦ったのか?」


 晴信が疑問を投げかけて来た。その言葉を予想していた桔梗は少し思案する。


(鷹綱殿達には口止めされていたけど、ここは正直に話そう……)


 鷹綱達も共に鬼退治へと向かい、協力して鬼を退治したのである。当然、鬼退治の功績も彼等と共に受けるべきであると桔梗は主張したのだが、鷹綱を始め、天波やエルヴィス、そして真夜までも鬼退治の功績を辞退し、桔梗に全て譲ると言ってくれたのである。

 だが、やはりそれでは桔梗が納得出来なかったのである。口止めはされておたが、桔梗は正直に答える事に決めた、それが、自分の為に命がけで戦ってくれた彼等への恩返しと思うからである。


「いえ、実は武田家の方々に協力をして頂きました」


「先程、躑躅ヶ崎館の前まで、桔梗を送って来た、あの若武者の事か?」


 湖衣姫の言葉に驚いた桔梗は、一瞬、湖衣姫を見つめる。湖衣姫は桔梗の視線を受けていたが、その表情は楽しそうに笑っていた。


(湖衣姫様に見られていたなんて……)


 桔梗は内心の動揺を隠そうとしていたが、湖衣姫の表情は悪戯を発見した子供の様であったので、後で質問攻めと、からかわれるであろう事は確実であった。


「はい。松本鷹綱殿、天波寛大殿、エルヴィス殿、それと、神社に仕えし巫女の神崎真夜様の4人にご協力頂き、見事、使命を果たせました」


「その4人なら、わしも何度か会って見知っておる」


 家臣を大事にする晴信らしく、名前を伝えただけで鷹綱達の事が理解出来た様であった。


「若者が育つのは良き事じゃ!その者達も呼んで、祝いの宴を催そう」


 持っていた扇子を「パチン」と閉じると、晴信は笑みを浮かべたまま立ち上がる。


「次の戦の前祝じゃ。鬼退治の勢いも貰い受けて勝てようぞ!!鬼退治の疲れもあろう。祝いの宴は明後日にいたす。湖衣、準備は任せる」


「かしこまりました」


 晴信は楽しそうに湖衣姫に言い伝えると、その場を去る。彼が去るまでの間、湖衣姫と桔梗は平伏して晴信を見送った。その姿が見えなくなるのを待ってから、湖衣姫はゆっくりと姿勢を正し、着物が邪魔にならない様に片手を添えると、「すっ」と優雅に姿勢を桔梗へと向ける。

 その表情は先程までと違い、年相応の無邪気な笑みが浮かんでいる。


「さて、桔梗……」


 桔梗は未だに顔を伏せたままであったが、長年付従って来た相手である湖衣姫である。その表情を見なくても、声色だけでその変化に気がつく

 。

「我が父、諏訪頼重の反乱から幾数年。わらわが未だに肩身の狭い思いをしておるのは事実です。それを思っての今回の件、嬉しく思う……」


 そこまで話すと湖衣姫は一度言葉を止める。桔梗は自然に顔を上げ、湖衣姫を見つる。この様に湖衣姫が言葉を止める時は、何か大事な思いや言葉を発する為である。

 長年、彼女に仕えて来た桔梗だからこそ理解出来る湖衣姫の仕草であり、桔梗を信頼しているからこそ自らの心の内を全て話す湖衣姫の関係は、彼女達主従の信頼の厚さを表していた。桔梗が見つめる湖衣姫は優しい笑顔を浮かべていたが、桔梗の視線を受けると真顔に戻る。


「だけど、もう二度と危険な事をしてはならぬ。そなたは、私の家族同然じゃ……」


 そこまで話すと真顔だった湖衣姫は、今にも泣き出しそうな表情になり言葉を続けた。


「勝手に居なくなっては、困るのですよ?」


 その言葉に桔梗は、自分がいかに姫に心配をかけていたかと痛切に感じた。だが、同時にこの様に心配してくれる心優しい湖衣姫に仕える事が出来る喜びも感じていた。


「姫様。勿体もったいなき、お言葉でございます……」


 再び桔梗は感謝の気持ちを込め、頭を下げる。


「まぁ、それは良い!それで、先程、館の前まで送って来ていた、あの若武者はその三人の内の誰なのじゃ?」


(き……来た……)


 再び可笑しそうに笑みを浮かべる湖衣姫に視線を戻すと、先程より一層嬉しそうに微笑んでいる。桔梗は内心の動揺を隠そうとした。


「えっ?な……何の事でございましょう?」


「もう!隠さずとも良い!わらわには、打ち明けなさい」


 湖衣姫は興味津々と瞳を輝かせている。その視線に桔梗がうろたえていると姫は続けた。


「それとも、私が桔梗の変わりに説明いたしましょうか?こう、その若武者殿に、何やら、頭と撫でられたり、姿が見えなくなるまで見送ったりと……」


「姫様!」


 身振り手振り楽しそうに話す湖衣姫を制止し、桔梗はため息をつくと、自らの敗北を悟る。


(まさか、姫様に見られていたとは……。迂闊うかつだったわ)


 敗北感に打ち萎れて居る桔梗の姿を身ながら、湖衣姫は楽しくて仕方がない様子であった。


「それで?白状いたせ」


 満面の笑みで湖衣姫は桔梗に問いかけた。桔梗の方は真っ赤になりながら答える。


「ま……松本……鷹綱殿にございます……」


「そうか、そうか!」


 嬉しそうに頷きながら湖衣姫は手を叩く。すると、奥から別の女中が何かの器を持って来ると、それを桔梗の眼前へと置く。桔梗はその器の中に納まっている物を確認すると、驚きと疑問の声をあげる。


「こ・・これは?」


「鬼退治の褒美と、私を心配させた罰じゃ」


 楽しそうに答える湖衣姫は、桔梗に止めの一言を放った。


「それを着て、祝いの宴に参加。もちろん、それを着て松本殿をお迎えに行くのですよ?」


「ええっ!」


 その器に納まっていたのは、美しい着物であった。この様な高価で煌びやかな着物を桔梗は着たことも無く。まして、普段からいつでも戦える様にと、湖衣姫が着る類の着物はまったくと言っていいほど着ない桔梗である。

 反論しようと顔を上げた桔梗だが、湖衣姫の笑顔は反論を許さないと語っていた。再び敗北を悟った桔梗は覚悟を決めるしかなかった。


(これは……鬼退治より難しいかも……)


 着物と睨めっこをする桔梗の姿を湖衣姫は、いつまでも楽しそうに眺めていた。


 そして、鷹綱にとって忘れえぬ運命の日が明ける………。

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