第四章 「桔梗」
第四章 1話 大切な場所
そこに広がる世界は、ただ一色の世界であった。
蒼く広がる空。そして青く広がる湖面。
空と湖面の境界線すら存在せず、自らもその蒼い世界に同化している錯覚に捕らわれる。
その蒼い世界の中心には、太陽の光を反射して光輝き湖面を照らす黄金色の光が煌く。
まるで黄金色の光の妖精が舞っている様なその光は、見る者の心を引き付けて離さない。
━━諏訪湖━━
信濃国にある大きな湖であるこの場所は、諏訪大明神が鎮まる所とされ、軍神である事から
その諏訪湖を見下ろす小高い丘の上に一人の侍が立っていた。松本鷹綱である。
鷹綱はそこから見える景色に心を奪われていた。眼前に広がる蒼い世界。その世界の中で舞う光に、彼は光の道を歩いて天へと昇る事が出来るのではないかと思っていた。
「どうだ?ここは美しい景色が見えるでしょ?」
背後からかけられた声に、一気に現実の世界に戻された鷹綱は、やっとの思いで声を出す。
「ああ、諏訪湖は美しい湖であるのは知っておったが、この様な場所があるとは……」
鷹綱の返答に声をかけた人物である桔梗は、嬉しそうに微笑む。
「ここは、父上と母上と三人でよく訪れていた秘密の場所なんだ」
そして、桔梗は鷹綱の横へと歩み寄り、懐かしむ様にその美しい景色を見つめる。
「そして……。ここはその二人が眠る場所……」
「ご両親の?」
「うん……」
その言葉に鷹綱は桔梗の方へと視線を向ける。その横顔は微笑んでいたが、少し憂いが浮かんでいた。
彼女の仕える
(ここは桔梗にとっては産まれ故郷だ。地理に詳しくても不思議はない……が。)
彼女にとってはとても大切な場所であるこの場所に、自分が居て良いのかと考え込んでしまった鷹綱に視線を向けると、桔梗は優しく微笑みなおして言葉を続ける。
「父上は戦で亡くなられたから、遺体は無いのだけど、父上の遺品と、母上がここで一緒に眠っている……」
長く美しい髪を風になびかせながら、桔梗は振り向く。視線の先には大きな木があり、その木陰には小さな墓標らしき岩が寄り添う様に鎮座していた。そこへ向け桔梗はゆっくりと歩き出す。桔梗の後ろを鷹綱もゆっくりとついて行く。
━━と。桔梗は突然立ち止まるりその場所でしゃがみ込んだ。何事かと慌てて桔梗の元へ向かう鷹綱は、桔梗が何故立ち止まったのかを、すぐに理解出来た。桔梗の眼前には一面に美しく咲き誇る花があった。
「桔梗の花……か?」
「ああ……。母上が大好きな花だった」
「少しだけ摘ませてね」と小声で囁くと、桔梗はその花を数輪摘み取った。両手で大事そうに桔梗の花を抱えると、両親の眠る墓前に捧げる。
「私の名前にこの花の名をつける。と、母上は頑として聞かなかったそうだ」
可笑しそうに微笑む桔梗に、鷹綱も自然と笑みがこぼれた。桔梗は墓前でしゃがみ込み、鷹綱は立ったままであったが、しばらく、二人は両手を合わせて瞑目する。
先に目を開けた鷹綱は、一心に拝む桔梗の姿を見つめていた。
(ご両親と色々と会話をしておるのだな)
心が温かくなるのを感じつつ、鷹綱は桔梗の気が済むまでその場でじっと待ち続ける。やがてゆっくりと目を開けると、そのままの姿勢で桔梗は、とても優しい表情で言葉を発した。
「私もこの花が好きだ。青空の様に綺麗な青いこの花が……」
鷹綱からは桔梗の表情は見えなかったが、その雰囲気で彼は桔梗の気持ちを察していた。
「そうだ!鷹綱殿は、この花。桔梗の花言葉を知っているか?」
突然の桔梗の問いに鷹綱は驚いたが、自らの記憶の糸を探る。しかし、残念だと思ったが、桔梗の花の花言葉は知らなかった。それを彼は正直に口にする。
「いや、すまぬ。あいにくと花言葉などには疎くてな……」
「そうか……。まぁ、
鷹綱の返答に少し落胆した様子の桔梗だったが、すぐに笑顔になる。
「で?おしえてはくれないのか?」
「ああ。教えぬ。自分で調べると良い」
(これは課題……と申す事か……。しかし、真夜等には聞けぬし……困ったものだ)
内心の苦労を知らぬ桔梗は、楽しそうに笑っていたが、再び両親の墓へと向き直った。
「よいのか?この様な大事な場所に拙者が居て……」
彼は先程から感じていた疑問を口に出してみた。その言葉に桔梗は顔だけを鷹綱に向けるともう一度、楽しそうに笑顔を浮かべた。
「鷹綱殿、先程もその様な事を考えておったであろう?」
「う、うむ」
自分の考えが読まれていたのに、少し困惑して鷹綱は答えた。その様子に桔梗は可笑しくて仕方が無いと言わないばかりに笑い出す。鷹綱は苦笑を浮かべるしか術がなかった。
「お主なら……。鷹綱殿なら、私の両親も喜んでくれる気がしてな。それに……」
そこで言葉を一度切った桔梗は、少し赤面すると、消え入る様な声で言葉を続けた。
「た、鷹綱様には、知っていてほしかったのです……」
(た・・・鷹綱…さま?)
普段の彼女からは想像出来なかった言葉使いに鷹綱は一瞬言葉を失った。その沈黙に桔梗は尚も赤面していたが、ため息をつくと何かを振り切る様に言い放った。
「ああ!もう!母上の前だから、少しは女らしくと思ったが、無理だ!」
(ああぁ~なるほど)
赤面して鷹綱から視線を逸らした桔梗の姿に、納得すると鷹綱はあえて軽口で返す。
「いや~なかなか、どうして、女らしかったと思うぞ?」
「とても、そんな風に思っておる顔には見えぬが……」
笑いを堪えつつ話す鷹綱を、赤面したまま睨みつける桔梗だった。
「と、とにかく、鷹綱殿には話しておきたかったのだ!」
「それは光栄でござるな」
芝居かかった言い草で返す鷹綱に、桔梗もやっと落ち着きを取り戻して笑顔で答える。
「そうだ!光栄に思え!」
笑い合う二人であったが、鷹綱は真顔に戻ると振り返り諏訪湖を見渡す。
「拙者の両親にも見せてやりたい光景だな……」
心地よく流れて来る風を受けながら鷹綱が呟き、微笑を浮かべて桔梗へと向き直る。
「鷹綱殿のご両親は……?」
「行方不明……。と申す所かな……」
「生死は不明……なの?」
「恐らくは生きてはおらぬよ……」
「そ……そうなの……か」
「少し長くなるが、たまには両親の話をするのも良い機会かもしれないな……。桔梗には昔話ばかり聞いてもらっておるが、また聞いてもらっても良いかな?」
「ああ、もちろん。私でよければ」
「すまぬな……。拙者も桔梗には話したくなったのかもしれぬなぁ」
少し可笑しそうに笑うと、鷹綱はゆっくりと話を始めた。
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