第三章  5話  鬼神

 息苦しそうに声を絞り出す真夜が、鷹綱と桔梗の背後へと視線を向けた。

 そこにあるはずの鬼の死体は今や黒と紫の禍々まがまがしい霧に包まれ、その霧の中心からは恐ろしいまでの邪気が漂って来る。あまりに禍々しい気に真夜は正気を保てなくなりそうだった。

 だが、鷹綱を始めその場に居る他の人々は、真夜を心配するあまりに、その変化に気がついていなかった。


(わ……私がしっかり……しっかりしないと……。天津神よ、お力をお貸し下さい……祓戸の大神はらいどのおおみかみ等。諸の罪、けがれを祓ひ賜へ清め賜へと申す事の由を恐み恐み申すかしこみかしこみもうす……)


 邪気に負けそうになる自分に必死に激を飛ばし、動かない身体に力を込める。冷や汗で重くなった巫女服が軽くなった気がした。全身に活力が戻ってくる。いつのまにかついていた膝に力を入れ、心と身体に力を入れ、真夜は立ち上がり、警告の声を上げる。


「鷹兄さん!!鬼が!その鬼は!危険です!そこから離れて!!」


 真夜の警告の叫びに振り返る鷹綱の眼前には、禍々しく渦巻く黒と紫の霧が先程の鬼と同じ大きさの人の形を形成しようとしていた。その霧の頭部、口に当たる部分が歪んだ。そんな風に鷹綱には見えた。それはまるで……。


(わ・・・・笑った?……のか……?)


 確信はなかったが、鷹綱にはその霧が不適に笑みを浮かべた気がした。その瞬間、彼の本能が警告の鐘を鳴らした。鬼に止めを刺した為に、霧に一番近づいていた桔梗へ向かい彼の身体は跳躍していた。


「さがれ!桔梗!」


「え?」


 鷹綱が桔梗の身体を掴まえ、後ろへと投げ飛ばした瞬間と、その霧から伸びた手が桔梗を庇った鷹綱の身体を吹き飛ばすのが同時であった。間一髪で鷹綱は桔梗を救う事が出来たが、彼の身体は宙を舞い、遥か後方へと投げ飛ばされ、岩場に強かに叩きつけられる。


「ぐっあ!」


 短い呻き声を挙げると鷹綱は、一瞬呼吸が出来なくなる。だが、常に戦いの場に身を置く彼の身体は、無意識に受身を取り、自らも後方へ跳躍して衝撃を和らげていた。


「鷹綱殿!」


 今にも泣き出しそうな表情で桔梗が鷹綱へと駆け寄る。その後に、天波、エルヴィス、真夜も続く。桔梗は鷹綱の横へと座り込み、彼の半身を起すと右手で彼の背中を優しく摩る。


(私はいつも鷹綱殿に助けてもらってばかりだ。私の試練の為に鷹綱殿が死んでは、何も、何の意味もないではないか!)


 自らを命がけで助けてくれた事に感謝しつつも、彼を失う事の恐怖を始めて桔梗は痛切に感じた。見ると鷹綱の口からは一筋の鮮血が流れる。呼吸困難の為に冷や汗でびっしょりと濡れた横顔は、苦しそうであったが、徐々に呼吸が出来るようになって来た様だった。

 一度、大きく息を吸い込むと、呼吸は落ち着きを取り戻した。そして、鷹綱の左肩に添えていた桔梗の左手が暖かく大きな手で覆われる。その手は優しく桔梗の手を何度もゆっくりと叩く。鷹綱が桔梗を落ちつかせる時や、心配をさせたくない時によく行う仕草である。


(こんな時まで、人の心配をして!もう、この人は……)


 溢れ出しそうになる涙を必死に堪える。鷹綱はそんな桔梗の心境を察してか、一度だけ顔を桔梗に向けると笑顔を浮かべた。だが、すぐに正面へと視線を戻す。

 そこにはすでに心優しい彼の姿は無く、一人の武人ぶじんの姿があった。そこへ天波達が駆け寄って来る。鷹綱も立ち上がるとその禍々しい霧へと彼等は視線を戻した。すでに霧は晴れていたが、そこには先程の鬼と同じ肌の色をしているが、以前より人間の姿に似た赤膚の鬼が立っていた。


「人の子よ。礼を言おう。汝らのお陰で我は更なる進化を遂げた」


 その場に居る全員が息を呑んだ。鬼が人語を話したのである。


「これは、なかなか、どうして男前になったもんじゃの……」


 エルヴィスが沈黙を破る様に、苦笑を浮かべると軽口を発する。


「どう言う事だ……。進化した。とは?」


「恐らく、あの鬼は昇華しょうかしたのであろうな……。鬼神に………」


「鬼神!」


 桔梗の言葉に天波が答える。天波は視線を鷹綱と真夜に向ける。桔梗もエルヴィスも天波に習って二人に視線を向けた。鷹綱と真夜は鬼神を睨み付けたままだった。


「先程の鬼はですね。人の魂を喰らい、そして一度命を落とす事で、鬼の神。鬼神へと昇華したんだと思います」


 口調こそ普段通りだったが、真夜の表情は怒りに震えていた。


「人の……魂を……喰らう……」


 驚きの声を挙げて桔梗は鬼神へと視線を戻す。尚も不適な笑みを浮かべたまま鬼神はそこに立っていた。鬼神を包んでいた霧は今や完全に晴れていた。


「どれ程の人の魂を……」


「軽く千人は喰っておるであろうよ……」


「そ・・そんなに!」


 桔梗はまたも驚きの声をあげ鷹綱を振り返る。その表情は彼女が今まで見た事も無い程に怒りに震えていた。

「その通りだ人の子よ……。我は人の魂を力の源とし、その怒り、苦しみ、憎しみを糧として今まさに「神」となったのだ……。これよりは、我の力で人の世に恐怖を焼き付けてくれようぞ。そして、人の魂と喰らい続け。我は究極の至高の存在へと昇りつめる」


 桔梗の言葉に返事を返したのは、鬼神自身であった。


「やれやれ、あ奴、言葉を話せる様になったばかりじゃが、何とも口達者くちたっしゃじゃの」


 鬼神の言葉に呆れ返るとエルヴィスはまたも軽口で返す。


「ほざけ……人の子よ。汝等なんじを喰らい。人里に降りて殺戮の限りを尽くしてくれよう。だが、赤子は殺さぬ。我は人の魂が好きだが、赤子の魂が特に好物でな。生きたまま魂を飲み込むのがたまらないのだ……」


 そう言い放つと残忍な笑みを浮かべ、鬼神は笑い出した。


「で……、どうする鷹?」


「俺に聞くか?」


 天波の質問に、鷹綱は笑って答える。その答えを聞いた天波は、肩を竦めると苦笑いを零す。


「確かに、鷹に聞くだけ無駄だったな。お前があんな化け物を、そのままって事は無いな」


「さすが寛大、よくわかっておるではないか……」


「いやいや、その質問を口に出す時点で、俺もまだまだって事であろうよ……」


「くくく、違いないな寛大。しかも、あの鬼神……。鷹を怒らすのが上手いと来た!」


「ああ!まったくだな。まぁ、頭に来たのは鷹だけじゃないがな」


「うむ、違いない」


「これは、捨ておけんであろう?」


「ああ、私も同感だ!」


 鷹綱達三人の会話を聞いていた桔梗も怒りの声を挙げる。


「ああ~あ。あの外道野郎げどうやろうさん。鷹兄さん達だけで無く、桔梗お姉さんまで怒らせちゃいましたね~。これは、すぐに地獄へと叩き堕ちてもらいましょう」


「うほっ!真夜、何気に良い事言いよるの!」


「珍しく、エル兄さんと意見があってしまいまたねぇ」


「わしと同じ意見とは……こりゃ、真夜もかなりご立腹じゃの」


 彼等のやり取りを聞いていた鷹綱や天波は笑みを浮かべる。その光景を眺めていた鬼神は、高笑いをあげると、左手を高々と上げる。


「ほざけ!人の子よ!我に逆らいし事、あの世で悔いるが良い!」

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