第一章 3話 弟子入り
夜空には満点の星が煌いている。昇仙峡に夜の
月明かりでさえも遮るその暗闇で、この世の者ではない者たちの、不気味な声が木霊する。闇は彼らの住処である。そんな昇仙峡であったが、僅かに開けた川辺の先に、ひっそりと灯りが灯っていた。
闇夜の中、一軒の小さな小屋から、蛍の灯火にも見える光がこぼれていた。小屋には男が二人に、女性が一人。鷹綱と幻夢斎、桔梗の三人の姿があった。
「まったく、危うくあのまま三途の川まで行く所じゃったわい…」
小屋の中にある囲炉裏を囲む三人のうち、一人で酒を飲んでいる幻夢斎が呟いた。
「何を申しておられる、いつも「三途の川なぞ渡っても、泳いで帰ってきてやるわい」等と豪語しておるではないですか」
呆れ顔でそう言い返す鷹綱の前には、鎧を脱ぎ、鎧下の衣で背中の治療を受ける桔梗の姿があった。幸いにして完全武装であった為、思いのほか傷は浅かった。
「よし、これで大丈夫だと思う。ただ、今夜は少し傷がうずくかもしれん」
「か・・かたじけない……」
鷹綱に治療を受けていた桔梗は姿勢を正し、礼を述べる。
「いやいや、礼にはおよばんよ。知らぬ事とは申せ、
笑顔で答える鷹綱であった。桔梗が仕える湖衣姫とは、南信濃の諏訪頼重の娘であり、鷹綱の主である武田晴信の側室で、諏訪四郎勝頼。後の武田勝頼の生母である。
「桔梗の柔肌に触って、喜びおって、この助平がぁ」
先程の一件をまだ根にもっている幻夢斎は、鷹綱をじろりと睨みつつ言い放つ。
「師に言われたくはありませんな」
治療を終え、桔梗の側から立ち上がり、そのまま幻夢斎と桔梗の間に腰を下ろし、囲炉裏の中にある鍋から、中身を器に掬うと、それを桔梗に差し出す。
「まぁ、食べてみなされ、暖まるぞ」
器を受け取り、やっと落ち着いたのか、自分が空腹である事を思い出す桔梗。
「美味いな、これは……」
中身を一口食べ、素直に感想を漏らし笑顔になる桔梗を見つつ。
(なんとか、落ち着いてくれた様だな)
「で、師に弟子入りしたくて、こんな所まで一人で来たのか?」
「ああ…。幻夢斎殿の名は甲府で噂になっておったからな」
「ふむ、まぁ、この助平爺な所は仕方ないが、確かに剣の腕は凄いからな」
幻夢斎の空になった杯に、新しい酒を酌みいれながら鷹綱は答える。
「助平爺はよけいじゃ~お主、それでも弟子か?」
横目で睨む幻夢斎など、気にも留めない仕草で自らの杯にも酒を満たす。
「だが、桔梗殿の腕前なら、わざわざ師事を仰がずともよいのではないか?」
(あれだけの腕を見せつけながら、よくも平気で言うな、鷹綱殿は……)
剣の腕には自身のあった桔梗であったが、先程の戦いの最中、不覚にも鷹綱の剣技に見とれてしまったのである。
(悔しくないと言えば、嘘になるが、それにしても……)
真っ直ぐに桔梗を見つめる鷹綱は、己の力を誇示している訳でもなく、ただ純粋に桔梗の剣の腕を褒めている様にしか見えなかった。
(それも、全然、嫌味に聞こえぬし、この様な殿方は初めてだ……。男など、自らの力を誇示し女子は黙って言う事を聞いていればよい……と申す者が多いと言うのに……)
「桔梗殿……?」
考えにあまりに集中し過ぎたのか、自分の名を呼ばれて思考の世界から呼び戻される。
「どうした?傷が痛むのか?やはり、疲れたのだろう。今日はもう休んだ方がよくないか?」
少し長く考え過ぎたのであろう。返事がないのは疲れによるものと思われた様であった。
「いや!あれしきの事で疲れることなどない!」
「確かに、それだけ元気なら大丈夫そうだな」
突然、少し声を荒げ答える桔梗に、呆気に取られる鷹綱達であったが、すぐに笑顔で答えられ、何故か全身の体温が上がった気がする桔梗であった。
(この殿方は、苦手じゃ、自分が
内心の動揺を悟られまいとする桔梗の姿を、何食わぬ顔で見ていた幻夢斎は、
(初々しい奴らじゃのぉ~)
二人に気がつかれない様に、楽しそうに微笑んでいた。
「それで、わしに師事を受けて、その後はどうするつもりじゃ?」
あまりのうろたえぶりに、助け舟を出す事にする。
「私に剣を教えて下さるのか?」
「うむ、教えるのはかまわぬが……こんなむさい男を教えるより、よっぽど楽しいわい」
幻夢斎の嫌味も、まったく意に介さずと酒を飲み干す鷹綱。
(こやつ、最近、打たれ強くなりよったな……愉快、愉快)
そんな内心とは裏腹に、不満そうな視線を鷹綱に向け、改まって桔梗に向き直る。
「じゃが、剣を覚えて何とする?その目的を言わぬ限り、わしもおいそれと教えるわけにもいかんぞ?」
一気に杯を飲み干すと、そのまま姿勢をかえずに杯だけ、鷹綱の前に差し出す。すかさず、酒を組み入れる鷹綱も、桔梗の一言を待つ様に彼女に視線を向ける。
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