第一章 「出逢い」

第一章  1話  昇 仙 峡

 天文10年(1541年)父である信虎を駿河に追放し家督を相続した晴信は、信濃平定に乗り出す。翌、天文11年(1542年)諏訪頼重を滅ぼし、天文14年(1545年)高遠頼継を滅ぼすと、南信濃を平定する。

 さらに天文16年(1547年)東信濃を平定。

 しかし、天文17年(1548年)北信濃の村上義清を攻めるが、激しい抵抗にあい「上田原の戦い」続く天文19年(1550年)「砥石崩れといしくずれ」と呼ばれる戦いで二度の敗北を喫す。その「砥石崩れ」から1年後の天文20年(1551年)まで時間はさかのぼる。


 昇仙峡しょうせんきょう


 甲斐国に存在する昇仙峡は巨大な渓谷であり。非常に険しい土地である。甲府の人々はこの地を「御岳」と呼んで尊んでいた。そこは、この時代のほとんどの人が足を踏み入れる事の無い人外魔境である。その様な秘境である場所に、進んで踏み入る人々もいる。修験者や行者である。


 美しい景観である昇仙峡に無数に存在する滝の一つに、鎮座ちんざしたまま滝に打たれる男の姿が見えたとしても、修験者か修行者と思えば何ら不思議な光景では無かったのである。座禅を組んだまま、滝に打たれ続けるその男は、まだ若々さが感じ取れる年齢に見えた。


 しかし、その外見とは裏腹に、一身に滝に打たれる姿はその場の景色に溶け込んだ様に見えるほど、落ち着きに満ちていた。異様な光景が見えたのは、その男が鎮座する滝の上流であった。


 自然に流れ込んだには、あまりにも不自然な大きな流木が、川から滝への狭間に至り。

 そして、自らの重みに絶えられなくなり、今、まさに滝の下で鎮座する若者の頭上へと落下していったのである。

 その異変に気がついた若者は、すばやく目を開け、思い切り跳躍すると、流木へ振り返ると同時に、まさに流れる流水の如く刀を抜き放つ。


風刃ふうが!」


 その刃先から、己が気力を風の刃に換えた一陣の突風が、流木の上の影へと伸びる。

 しかし、その影は風の刃が自身に届く直前に、すっと消えた……と思うほどの速さでその流木から飛び去る。風の刃に一筋の傷を付けられた流木ではあるが、その直後に滝つぼに激突し、原型を留める事すら出来ないくらいに、粉砕し拡散して行った。


 もしも、流木に気が付かずに、鎮座したままであったら、その流木と運命を共にしたであろう若者は、何事も無かった様に不適に微笑むと己の頭上を越え、背後へと回り込んだ影へと視線を向ける。その影は若者の背後にあった岩場へと静かに降り立った。


「まぁ~だ、まだぁ。じゃのぉ~ひひひひ」


 そう、影であった物体の正体である、少し小柄な老人はしがれた声で愉快そうに言った。


「素早さだけは、天下一ですなぁ。師よ」


 笑顔を浮かべたまま、その老人へ返事を返す若者であったが、ふと何か誘われる様に滝のさらに下流へと顔を向ける。


「ほぅ?下の方が騒がしいのぉ。誰ぞ戦っておるのか?」


 老人もその方向へと視線を向け呟く。滝の騒音に紛れて微かに戦いの音が聞こえていた。再び、老人が若者に視線を戻したが、若者はすでに走り出していた。


「と、体が先に動いたか、若いのぉ~」


 若者の走り去る後ろ姿を見て、愉快そうに、それでいて満足気に笑顔で頷く老人であった。


 滝の下流では、流れは緩やかになり、開けた浅瀬になっていた。その浅瀬では、一人の鎧武者が、異形な物の怪に取り囲まれていた。


「ケケケッ……」


 その鎧武者を取り囲む物の怪もののけ。「子鬼こおに」「餓鬼がき」と呼ばれる者たちは、数の有利で自分達の勝利を確信しているのか、異様な笑い声を出していた。

 彼らはこの世の者ではない。魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする世界の住人。昇仙峡の様な人外魔境じんがいまきょうには、この様な異形な物の怪の類が人の世に現れ害を成す。


「くっ」


 完全武装の鎧武者であったが、やはり数の上での不利は否めず、動くに動けずにいた。その膠着こうちゃくとした空気に絶えられなくなったのか、一匹の餓鬼が武者に襲い掛かる。

 右手を突き出すだけの攻撃とはいえ、餓鬼とて物の怪である。通常の人間ではとても避けられるものではない。しかし、その武者は餓鬼の右手を素早くかわし、そのまま餓鬼の頭部に太刀の一撃を振るう。


 その素早く正確で重い一撃で餓鬼の頭部は、見事に二つに割れる。そして、振り向き様に背後から忍び寄っていた餓鬼をなぎ払う。だか、鎧武者の攻勢も、数で襲ってくる餓鬼達の前では不利を覆すくつがえす事は出来なかった。


 3匹目の餓鬼の攻撃を、その背中に受けてしまう。「ガッ」と鎧と餓鬼の爪が擦れる音が響く。その状態でも武者は直撃だけを避けていた。その動作だけでも武者の実力が伺い知れる。しかし、その背には餓鬼の爪によって3筋の傷跡が残った。


「おのれぇ……」


 その場に肩膝をつき、餓鬼の群れを睨み返す武者。と、その美しい瞳に、近場の岩場の上からこちらへと飛躍する影が映る。


(鳥……?)


 その影は、鎧武者の近くへと静かに着地した。鳥の翼に見えたのは、二本の太刀をかざした若者であった。


(あの二本の太刀が、翼にでも見えたと?この様なときに何を馬鹿な!)

 一瞬の間に、己が考えにふけっている鎧武者を、かばう様に若者は身構える。


「無事か?」


 そう声をかけて来たかと思うと同時に、その若者は二刀流をまるで剣舞でも舞う様に、一閃させた。その瞬間、2体の餓鬼が自ら斬られた事も理解しないまま絶命する。

 それ程に、その若者の剣技は凄まじかった。かなりの剣の使い手を自負していた鎧武者さえも。その場の状況を忘れ、注視してしまう程であったのだ。が、すぐに我に返り若者に怒鳴り返す。


「すっ……助太刀無用!」


 しかし、若者は素早く鎧武者の背後に自らの背中を合わせると。


「この数が相手だ、遠慮は無用にて!」


 こうして背中合わせの二人の人間に対し、仲間を殺された恐怖と怒りの視線を浴びせていた餓鬼であったが、まだ数での有利があると思ったのであろう。逃げ出す事もせずに、再び襲い掛かってきたのである。


 だが、餓鬼にとって災いしたのは、お互いの背中を合わせ、背後の憂いが無くなった二人にとって、数の多さはすでに有利になっていなかったのである。その事に餓鬼が気付いたのは、その数が半数以下に減った時であった。そして餓鬼達はその場から逃げ出したのである。


「どうやら、逃げ出した様だな」


 餓鬼達が逃げ去った方向を見つめながら、たっぷり時間をかけ確認した後に、その若者は振り向きながら言った。


「怪我は?」


 若者は武者の正面に立つと、怪我の具合を確かめるように尋ねた。武者は正面に立つ若者の質問に答える事もせず、兜に手をかけその兜を取る。その兜が頭から取り去られた瞬間、ふわりと舞う様に黒く美しい長い髪が流れ落ちる。そして兜を片手で持ち、空いている手を腰にあてると、姿勢を正し若者を見据え。


「助太刀無用と申したはず!あれしきの数!私一人で十分だった!」


 と、謝礼の言葉ではなく、いきなり若者に罵声を浴びせたのである。端整な顔立ちを「キッ」と引き締め、若者を睨む様にして凄む姿は、神々しくも見える。


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