第4話 揺り戻し

 ゴミ箱にたまったティッシュの塊を見ては現実に戻る。善意で来てくれているはずの三人をなにに使っているかを思い出しているからだ。扉越しにしか会ったことのない女達に浩一は全てを委ねているようだった。

(もう顔も見ることができない)

 浩一はしめった布団に潜り込み、そう思った。

 浩一には、この女たちが最後のチャンスだと思っていた。ひきこもりから脱出するための最後のチャンス。そのチャンスを性欲に潰されてたまるか、と抵抗する気持ちを持っていた。声がうまく出せなくてもちゃんと返事をするべきだ。今度来てくれた時の予行練習を何度も繰り返す。しかし……。

「浩一君、だーい好き」

 最後にはこうなってしまうのだった。絶対にありえないことは浩一にもわかっている。頭では。でも可能性はゼロではない、という甘い見積もりが頭の中を駆け巡っては、浩一を悶えさせる。なんと甘美な時間だろう。浩一は自分に酔っていた。自意識過剰ともいう。

 

 そしてしばらくが経った。ついにその日がやって来たのである。

 またもや夕日がカーテン越しに感じるごろ、一階にある玄関が騒がしくなった。

(ついにきた!)

 浩一は落ち着かない様子で、部屋の中を歩き回った。パジャマに汗がにじむ。三人の階段を駆け上がってくる音が聞こえる。ドッドッドッド。それは浩一の心臓の音とシンクロしていた。感じたこともないほどの心臓の音。もう浩一は汗がびっしょりと濡れていた。しばらく布のこすれる音がすると、

 

 コンコン。


 軽い柔らかな扉を叩く音がした。

「渡瀬浩一くん?」

 あの声だ。あの優しい声。女神の声ともいえる声。メシアの声。何度も妄想の中で呼んでくれた井上美咲。

「また来ちゃった、今日はお話してくれる?」

 美咲は軽い感じの声で話しかけてきた。浩一は部屋の真ん中でに棒立ちになったまま、

「う、うん」

 と答えた。精いっぱいの声だった。声が震えているのである。部屋に自分の声が響いていることがいやだった。

「よかった、返事してくれて。今日はね、プリントを持ってきたの」

 ごそごそとかばんをいじる音がした。

「えっとね、これは二年生の十一月のプリントでー、こっちは、えっと何だったけな」

 紙がこすれる音がした。相当な枚数になっているようだった。

 井上美咲の新たな言葉を聞けて、浩一は相当満足した。もうこれだけでしばらくの間生きていける。そう思うほどに。

「で、まとめたのを持ってきたんだよ、お母さんに渡しておくからチェックしてね」

「う、うん」

 浩一はうなずくことしかできなかった。

「じゃあ、もう私たちは帰るね」

「え、たったこれだけ、あっ」

 思わず浩一は考えを声に出してしまった。思わず口を塞ぐ。

「なになに、もっとお話ししたいの」

 美咲はすこしウキウキした声で返してきた。浩一の声に一緒に来ていた人もすこし笑ったようだった。その声は前回と同じ、間宮小春と清水千紗だろう。

「学校に来ればもっと話せるのに」

 ハスキーな声はぶっきらぼうに言った。小春だった。

「ちょっと先輩そういうのは……」

 慌てて声の幼い子が止める。千紗は小さな声だった。

「いいよ。何をお話ししよっか」

 美咲が改めて、浩一に質問してきた。暗闇が迫る部屋、浩一は頭をフル回転させながら考えた。何も声に出せずにいると、美咲がさらに続けた。

「私、そろそろ受験なんだー。もう来れなくなっちゃうの。その時はここにいる二人にプリントをもってきてもらうね」

「え、いいよ。もう」

「なんでー?」

「もう学校行かないし」

 そういうしかなかった。美咲なら否定してくれるだろうという甘えがでた瞬間でもあった。

「そんなこと言わないでよー」

 実際美咲は否定してくれた、どこかうれしそうな声だった。

「みんな、少なくともここにいる三人は待ってるよね、ね?」

 美咲はほかの二人に話を振った。

「まあ……」

 小春は少し困った声だった。

「はい」

 千紗は機械的に返事をした。

「だって! 浩一君、学校来ようよー!」

 浩一はこの勢いで「行く」と言ってしまいそうだった。だが、頭の中に喜ぶ両親の顔が思い浮かんでしまった。この時浩一は気づいたのだ。このひきこもりは復讐でもあることに。父親がネズミと蔑んだことに対して無言の抵抗、学校の利用してきた連中への抵抗、それがひきこもりに繋がったことに。そして浩一の気分は一気に落ち込んでしまった。美咲の言葉に返すことも忘れてしまっていた。

「うーん、やっぱ難しいかな」

 美咲は困惑した声色をした。

「違う!」

 浩一は自分でもびっくりするほどの大きな声が出た。もちろん外の三人もびっくりした様子で沈黙してしまった。

「何が違うの?」

 美咲の声は特に優しくなった。

(違う、違うんだ。三人が嫌だから学校に行きたくないわけじゃない! むしろ会いたい。いますぐにでも! でも……)

「ふさわしくないんだ」

 浩一はまたしても考えが声に出た。もう美咲に白旗をあげているのがわかる。

「何がふさわしくないの?」

 美咲は優しい声で聞く。

「僕が」

 浩一は泣いていた。涙声で答えた。

「僕がふさわしくないんだ。もう生きていていい人間じゃない、未来がある人間じゃない。許せないんだ、僕が」

 浩一は扉に両手をあてて答えた。そしてずるずると座り込んでしまった。

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