(5)

 ゆうべとは打って変わって、早朝から、もう初夏並みの陽気だった。自転車屋の勝手口を用心しながらそっと開けると、朝日が建物に長い影をつけていた。


 スナイパーは、夜通しずっとここで待ち伏せしているんだろうか? それとも、いったん帰ってうちでまだ寝てる? 分かりません。でもどっちみち、俺たちの出口はここしかない。撃たれないよう祈りつつ、頑張って出るしかない。とほほ(笑)。


 俺は思い切ってドアの前に出てみた。なんか、あのときの辻になった気分ですね。でも狙われてるのが分かっちゃってる分だけ、ぶぶ怖いです。辺りを見渡しても手がかりはない。明るすぎてレーザーとか見えないし。逢魔先輩の眼力が欲しいところ。


 ・・・もうね。もったいぶらずに、やるなら今やれよ。ミカがまだ眠ってるうちに。覚悟はできてる。だけど後始末だけはきちんとしていってくれ。転がった俺をちゃんと回収してね。ミカが、そんな汚いものを見なくて済むように。


 だけどとりあえず何も起こらない。らっきい。はは。


     *


 従業員の出勤時刻までには、たぶんまだ余裕がある。でも、そろそろミカを起こして出発の準備にかからなければ。さっき見たらぐっすり眠っていたので、起こすのはちょっとかわいそうだけど。


 空港まではどうやって行こうか? 歩くのはもう飽きた。バスで乗り換えかな。途中で捕まっちゃうかも。でももういいや。やれるだけはやったってことで。単なる自己満だけどね。はは。・・・ええと。自販機で飲み物ぐらいは用意して――。


 突然、建物の裏手から足音が聞こえてきた。明らかに早朝にそぐわない、複数の、緊迫した、重々しい足音。くそっ! 追っ手だ! 背筋が凍った。次の瞬間には、もう角を曲がって、背広姿の男たちが現れた。


 俺は走り出した。


 誰かが何か叫んでいる。――月島! てめえ! この期に及んで裏切りやがって! これだから東京もんは信用できねえっ。


 俺は走った。がらんとした無人の駐車場の方へ。ミカと反対の方へ。


 ミカは、お前らに見つかったから戻るんじゃない。お前らに捕まったから戻るんじゃない。彼女は、自分の意志で、高貴な覚悟で、自ら戻ることを選択したんだ。元の世界へ。諦めの世界へ。そんなミカの道行きを、邪魔することは許さない。彼女が歯を食いしばって踏み締める、その一歩一歩を、きさまらが土足で踏みにじることだけは、絶対に許さない!


 どうした? ほらこっちだ! 追いかけて来いよ。捕まえられるもんなら捕まえてみろ!


 俺は走った。やつらをミカのいる場所から引き離すために。一歩でも遠くへ。連中は叫びながら追いかけてきた。いいぜ。その調子だ。何時間でも、余裕で引き回してやる!


 そのとき、走る俺の耳をかすめて、何かが風を切った。同時に前方の地面で、白い破片がぜて飛び散った。


     *


 ――さすがだスナイパー。氷の弾丸。


 証拠は残らない。後頭部の急所を一撃、それで終わりだ。全てがなかったことになる。スキャンダルは回避される。今なら、夕方のニュースに間に合うだろう。


 ・・・高校一年生の男子(16)が早朝のジョギング中に、ショッピングセンター駐車場で突然倒れ、救急搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は急性心不全、既往症はなかったとのことです。保健所では、若者であっても、激しい運動の前には充分な準備運動が必要です、と注意を呼びかけています。・・・


 クソが! そいつで、俺を止められると思うか? やってみろよ!


 身を隠す場所はない。追っ手も迫る。そしてそのとき――俺ははっきりと悟った。


 南の島なんかじゃない。ここだ。この、まばゆいばかりに輝くコンクリートの砂漠こそが、俺の終着駅だったんだ。


 俺は空っぽの駐車場を、全力でジグザグに走った。白い地面に次々に浮かんでは消える走馬灯を、その中のミカの姿を、追いかけるように。


――俺は中腰のまま、左肩で、気を失ったミカの頭を支えている。


 俺は頭を思いっきり左に振った。右耳のすぐ傍を、弾丸が唸りを上げて走り抜けた。コンクリートで硬い氷晶が弾け、ぱーんという音とともに埃が舞い上がった。


――〈マモ~レ〉のベンチに腰掛けたミカが、右隣の場所をとんとんと叩く。


 今度は頭を右へ。弾丸が左のこめかみをかすめた。


――「鍵、取ってくれる? 左のポケット」


 左へ。弾は右にそれた。


――お化け屋敷でミカが、嬉しそうに俺の左腕にしがみついてくる。


 また左。


 そして右。左。フェイク。右。フェイク。フェイク。また右――。


 遥か後方、どこか見えない遠くの場所から、俺の後頭部に狙いを定めているスナイパーの心が読めるようだった。トリガーを引く指が見えるようだった。俺は、一足ごとに浮かぶミカの姿に助けられて、次々に放たれる弾丸を辛うじてかわしながら走り続けた。


 いいぞ! もう少しだ。あの角を曲がれば、やつの死角に入れる。あと二歩。あと一歩。あと――。


 そのとき、やつの狙いがぴたりと定まったのが分かった。静止した緑の点が、俺の後頭部をちりちりと焼くのが感じ取れるほどだった。


 殺られる!


 ・・・その瞬間、時がそのまま止まったような気がした。世界がそのまま止まったような気がした。その止まった世界で、俺はただ、トリガーにかかっているスナイパーの指が動き出すのを待っていた。それはまるで、ギロチンの刃が動き出すのを待っているマリー・アントワネットの気分。知らんけど。


 でも、俺の心は、自分でも不思議なほど静かだった。最初から最期まで、ものごとの全部が、まるごと見えた気がした。


 何だよ。こんなの、最初から分かってたじゃないか。ここで俺が倒れて、全てがなかったことになる。選択肢なんて、最初からなかった。あんなふうに田んぼの真ん中で出会ったのが、そもそも間違いだったんだよ。


 これでいいんだ。これで。・・・少なくともミカは、これで、残酷な世間から笑いものにされずに済む。バカで無力な俺にできることは、せいぜいこの程度。これで満足するしかない。はは。・・・だけど、やっぱりちょっと怖いですね。はは。


 そのとき、予想外のことが起こった。


     *


 いきなり時がまた動き出した。次の瞬間――前方遠く、駐車場の隅で何かが不意に動いた。小さな人影が飛び上がって、両手で板のようなものを頭上に振りかざした。


 陽光を受けたブレッソンの表紙が、ぎらりと鋭い光を放った。


 目のくらんだスナイパーが一瞬たじろいで、淡い緑の光点がコンクリートを横に走った。


 今だ! 俺は最後の一歩を蹴った。


 だがやつはもう体勢を立て直していた。弾丸が、死角に飛び込む寸前の左のふくらはぎを捉えた。激痛にたまらず、俺は叫び声を上げてよろめいた。クソっ。卑怯だぞ! 一発で仕留めるんじゃなかったのか? せこい手使いやがって!


 同時に、すぐ後ろに追いついた敵の手が、俺の肩をむんずと掴んだ。ちきしょうっ。俺は振り向きざま、渾身の力を込めて、アッパーカットを放った。


 残酷な世界よ! この俺の、呪詛じゅそを知れえええええっ!


 固く握りしめた俺の拳は、襲いかかる屈強な大男の顔面を、見事に捉え――。


 ・・・なかった。


 そりゃそうですよね。写真部のヘタレ野郎が、鍛え上げられた肉体のデカにかなうわけないですやん。てか、そもそも俺は完全に狙いを外していた。拳が虚空を切ったと同時に、荒々しい指が俺の首根っこを掴んだ。次の瞬間、俺はもう地べたに頭から叩きつけられていた。口の中で血の味がした。アスファルトの匂いがした。


     *


 終わった。全部。


     *


 ミカには、生涯、もう二度と会わせてもらえないだろう。


 でも、取り調べ室で土下座して泣いて頼めば、空港で見送りぐらいはさせてくれるだろうか?


     *


 ミカが手荷物ゲートに向かって歩いていく後ろ姿が見える。


 パパの後ろにおとなしく並んでいる。背中の小さなリュックがゆっくりと進んでいく。ミカは一度も振り向かない。髪の先がちょっと揺れる。黒いトレイを取って、そこにリュックを載せると、あっという間に見えなくなった。あとに残ったのは、ベルトコンベアの上の空っぽの空間。さっきまでミカが立っていたところに、今は灰色の壁――そして、たぶん微かなシャンプーの残り香。それもじきに消えてしまう。その後には、もう何も残らない。


     *


 何年か経って、無気力な俺が、マークシートを塗りつぶしているのが見える。ミカがいなくなった空間のことを考えている。灰色の壁のことを考えている。


     *


 中年の俺が、しょぼい会社のしょぼいパソコンの前に座って、しょぼいサービス残業をしている。真っ暗な窓の外を眺めながら、灰色の壁のことを考えている。


     *


 老け果てたじじいの俺が、病院のベッドで死を待っている。殺風景な窓の外を眺めながら、あの壁のことを考えている。あの夜のことを考えている。なんで、あのとき、ワシは、ぶちゅしなかったんじゃろ~な~、とか考えている。・・・いいからとっとと死ねよ俺。


     *


 ・・・そのとき、息を切らして怒りに燃える唸り声が聞こえた。


「余計な面倒かけやがって! このクソガキが!」


 あのね刑事さん。それドラマの見過ぎです。ほんとの刑事はそんなこと言わないですから。


 それに続けて、聞き慣れた声が耳元で怒鳴った。月島! せっかくの、俺さまの自己憐憫の邪魔をするんじゃねえ!


「お前バカかよ! 聞こえなかったのか? 逃げんなって言ったの、聞こえなかったのか? 逃げる必要ねえんだ! 飛行機、全部止まってる。行きたくても行けねえんだよ! EUは国境封鎖。全面的にロックダウンだ!」


 ・・・は? 〈ロックダウン〉? ――なにそれ美味しいの?


     *


     *


 パニック映画を地で行く感じだった。空港の全員が浮足立っていた。


 受付カウンターは電話の応対に追われていた。タクシーのおじさんは、「全便欠航」の掲示板を見上げながら俺に言った。なんだこれ。青空なのに。空港できてからこのかた、ずっとこの商売やってるけど、こんなのは初めてだよ。


 喜べるような状況じゃないのは明らかだったし、そんな気にもなれなかった。ひどいことになりそうだった。坂道を転がり落ちるように、世界中で、事態は悪化の一途をたどっていた。文字どおり、秒刻みで。


 ただ俺たちに分かったのは、俺とミカが〈マモ~レ〉で過ごした一晩の間に、世界が転移してしまったということだった。昨日までの常識が通用しない、異世界へと。


     *


 ミカはパパに抱きついて、ごめんなさいごめんなさいと泣いた。ミカパパは怒った顔も見せずに、優しく娘を抱きしめて言った。まあとにかく、無事で良かった。何事もなくて良かった。


 そこへ花染さんが、ミカパパを押しのけてミカに抱きついた。良かったあ、心配してたあ、と泣いた。おっと花染さん、それちょっと上遠野氏に失礼かも。だってパパ、一瞬むっとした顔をしてましたですよ。まあいいですけど。


 ミカパパがちらっと俺の方を見た。すごい形相でにらみつけられた。「おめえだけは絶対に許さねえ! 後で絶対ぶっ殺す」的な。・・・あのねお父さん、人によって態度変えるのは良くないですよ。娘さんに優しくするんなら、俺にも優しく接してくださいよ。無理ですかそうですか。


 俺の親はミカパパに平謝り。父よ母よ迷惑かけてごめんね。その分、老後の面倒はきっちり見させてもらいますよ。だけどミカパパはやっぱり良い人ですね。俺の親には優しい。ちゃんとフォローしてくれました。


「・・・いやー、今回の件は、むしろかえって、結果的には良かったのかもしれないです。予定どおり昨日ローマに発っていたら、恐らく、空港で足止めを食って、大変な騒ぎに巻き込まれていただろうからね。こっちにも帰れなくなっただろうし。ははは」


 俺の親は白鳥先生にも平謝り。父よ母よ(以下略)。白鳥先生も優しいです。


「ほんと何事もなくて何よりでした。正直、山本くんがこんなことをしでかすとは、思いもよらなかったです。模範的な生徒でしたからね。でもまあ、おとなしいやつに限って、突然刺しに来たりしますからね。ははは」


 ・・・先生それフォローになってません。


     *


 ミカパパの話が続いている。


「・・・うん。さっき調べたら、まだ成田からフランクフルトには飛んでいる。週3便。そこからローマには、ルフトハンザで行ける。今、EUには原則入れないんだけど、たぶんイタリア政府から特別許可がもらえると思う。だからまあ大丈夫。何日か、予定が遅れただけで――」


 ぼんやりと聞いていたミカが、はっと顔を上げた。一瞬、おびえたウサギみたいな視線を俺に走らせた。顔から血の気が引いた。握りしめた手指の関節も白くなった。


 そのとき、上遠野氏のケータイが鳴った。立ち上がって、ロビーの端の方で、ずいぶんと長く真剣に話し込んでいた。たぶんイタリア語。知らんけど。


 戻ってきた上遠野氏の顔は、急に十年も年をとったように見えた。しばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと、小声でミカに向かって話し出した。切れ切れに声が聞こえた。


「・・・プロジェクト委員会・・・クラスター・・・かなり高齢で、3人はもうICU・・・国家予算・・・緊急事態・・・無期限延期・・・たぶん4、5年は・・・僕らも、当分はこの街で・・・」


 ミカの顔に生気が戻って、頬がまた少し赤くなった。まだ信じられないような表情のままで、うん、うん、と熱心にパパの話を聞きながら、時おり、俺の方をちらりちらりと見た。


     *


 刑事が俺に切り出した。


「まあ大事にならなくて良かったってところだが。それでも決まりだから、調書ぐらいは取らせてもらうぞ」


 それに気づいたミカパパが、探るように、ちらとミカの顔を見た。立ち上がってこちらへ来ると、刑事に声を掛けた。


「すみません。ちょっと二人だけで・・・」


 刑事は二、三分して戻ってくると、ばつが悪そうに話を続けた。よく考えたら、まったくバカバカしい。こんなことに関わってる暇はない。特に今日は、もうそれどころじゃないからな。そう言うと、そそくさと帰って行った。


     *


 花染さんから充電器を借りました。無事、ケータイが復活。よかったあ。・・・お? 〈P〉から何か来てます。


〈中止命令を受け取った。引き上げる〉


 そして、珍しくちょっと長い続きが。


〈俺の腕も落ちたもんだ。12回続けてかわされたのは初めてだ。次は一発で仕留める〉


 最後に、署名のつもりなのか、ぽつりと一文字、


〈--- G.〉


     *


 ミカパパが、娘に優しく言った。とにかく、だいぶ疲れているだろう。うちへ帰ろうか。お風呂入って、ゆっくり休むといい。


「ありがとパパ。でも――」


 小声でもよく通るミカの声が、ざわめきを抜けて、はっきりと聞こえた。


「私、山本くんと帰る」


 ミカパパは、反射的にまた俺の方を振り返った。すごい形相。「おめえだけは(以下略)」的な。だが俺の横を見て、なぜかぎょっとして目を逸らした。


 見ると月島が、ものすごい激怒ホストの形相で上遠野氏をにらみつけている。「今、このふたりの邪魔しやがったら、俺がおめえをぶっ殺す」的な。上遠野氏は思わず救いを求めるように、その隣の花染さんへと視線を移した。


 花染さんは、月島を超える形相で氏をにらみつけていた。・・・こわっ。


 ナイスだ月島。けど、これ、基本お前にゃ関係ねえだろっ。あと、花染さんも、ナイスですけど気をつけてね。もうどっぷり月島入っちゃってますよ。


 二人の顔から目を背けたまま、ミカパパは、すねたようにぼそりと言った。


「・・・あんまり遅くなるんじゃないぞ」


     *


 さて。・・・この長い話も、ようやくそろそろ終わりです。


 俺たちは、お気に入りのサイクリングロードをチャリで流している。風がとっても心地よい。でも、ゆったりとそれを楽しむには、ふたりともさすがにちょっと疲れ過ぎていた。へとへとと言ってもいいでしょうね。肉体的にも精神的にも。


 それに、これってハッピーエンドとはほど遠い。世界は恐ろしいことになろうとしていた。人々は、この年を、災厄の年――〈パンデミック〉の年、と永く記憶することになるだろう。


 だけど、と俺は思った。ミカの腕が、俺の腰に巻きついている。・・・その暖かい感触。俺の後ろにミカがいる。ミカがここにいるんだ。たった一日の差で。


 それだけで、俺は、今、この瞬間に、全銀河系でいちばん、俺TUEEEええええっ! と叫びたくなった。まあ結局、俺は何もしなかったんだけど。何もできなかったんだけど。


 ところで話変わりますが、よく考えたら、二人乗りはやっぱりよくないよね。危ないから、よいこのみんなは絶対真似しちゃダメだよ。でもお巡りさんお願い。今日だけは、俺たちを見逃してやってください。もと凶悪犯なんで。それに免じて。


 ・・・おっとお! やっぱお巡りさん正しいです! 危ないのは事実だった。ミカが叫んだ。


「あれ!」


 前方のアスファルトの路上で、カメが慌てて首を引っ込めたのと、俺が急ハンドルを切ったのが同時だった。勢い余ったチャリが宙を舞った。


 今でも後悔してます。この場面で、俺は、自分の体を犠牲にしてでも、後ろのミカを守るべきだった。だけど事実として、そのとき俺の頭にあったのは、着地の際に自分の股間がチャリのサドルに激突することを回避する、そのことだけだった。男はいつでもエゴイスト。俺は思いっきりチャリを蹴った。


 奇跡は二度ある。俺たちが、頭から田んぼに突っ込まなかったのは奇跡だった。気がついたら、チャリは少し離れた場所でひっくり返っており、・・・俺たちは、辛うじて、田んぼのど真ん中に無事着地していた。ミカは、二人乗りの姿勢そのままに、俺にしがみついたまま、後ろで固まっていた。不幸中の幸いというか、今回は、田んぼはまだ乾いていた。


 俺たちは、どちらからともなく笑い出した。しばらく止まらなかった。やがて、俺はミカの方へ向き直った。


 ミカはまだ、俺の腰に回した腕をほどかない。そのまま、柔らかな体を俺の胸に押しつけてきた。


 心地よい春風に乗って、桜の花びらと、薄れかけたシャンプーの香りが漂ってきた。それと――ミカの汗の匂い。


 ・・・正直に言う。死ぬほどいい匂いだった。・・・すんません。俺、もうヘンタイ確定だな。


 だが格言に曰く――「ただし美少女に限る」。それに引きかえ、俺の方はたぶんひでえ匂いだろう。俺は、ミカの腕を取って、そっと引き離そうとした。


 だが、ミカは思いがけない力をぎゅっとその腕に込めて、ますます俺に抱きついてきた。甘えるように、


「・・・もうちょっとだけ・・・」


 俺は言った。


「ヒルがいるかもしれんぞ」


 半分くらいは本気だった。ヒルって冬眠するのかな? 後でググろうっと。


 ミカは自分の足元を見もしなかった。まっすぐに顔を上げて、俺の目をぐっと覗き込んだ。そして、ささやくように言った。


「取ってくれるんでしょ?」


 今回ばかりは、とてもじゃないが、この引力には逆らえそうにないな。吸い込まれそうに黒く濡れたその瞳の奥に、オレンジ色に輝く遠い山並みが、鮮やかに映っていた。その前を、少し季節外れの渡り鳥が二羽、ゆっくりと横切って行った。


          〈おしまい〉


**********


 最終回のEDは ClariS 「Orange」。


 ちなみに、2020年3月24日は新月でした。JAL が欧州行きほぼ全便の運行停止に踏み切ったのは、2020年3月26日です。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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都会育ちの美少女が俺の郷土愛をズタボロに引き裂いてくれる日々 竜の心を宿すもの @ryunokokoro

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