(4)

 自転車屋の勝手口――。


 街灯の陰で薄暗い。祈るような気持ちで、銀色のドアノブをそっと回した。飾り気のない、重い鉄の扉が、ゆっくりと開いた。ありがたや!


 おじさんはまだいるかな? それとも? 用心しつつ、ふたりしてそおっと入っていくと、幸い、もう、真っ暗な自転車売り場には誰もいなかった。勝手口の所だけ、小さな灯りがつけたままにしてある。誰かが修理の終わった自転車を取りに来たあとらしく、受け取りのサインをした伝票だけがデスクの上に残されていた。


 建物の中は暗いけど、昼間の空気が残っていてすごく暖かい。外の雪が嘘みたい。とりあえずほっとした。服に付いた雪はもう消えていた。でもちょっと濡れたかな。きれいそうなウエスを拝借して体を拭いた。ミカの体も、と思ったけど・・・ためらった。ミカは赤くなって、自分で、と言って布を受け取った。超かわいいっ。死ぬっ。


 消灯したスポーツ屋の広いフロアを、ふたりでそろそろと進む。目が慣れてきたら、通路側からの弱い光のおかげでだいたいの様子は分かった。チャリ、スキー、ボール、ラケット、テント、キャンプ用品、水着、スポーツウェア・・・。見慣れたはずの品々が、まったく違って見える。真夜中のジャングルみたい。どきどきしつつもちょっとわくわく。一種のアトラクション感覚ですね。だけど油断は禁物。防犯カメラを気にしながら、映らないように身を潜めて行きました。あまり自信はなかったけど、警備員が飛んで来ないところを見るとたぶん大丈夫なんでしょう。


 通路にたどり着いてフロアの外の様子をうかがうと、これまた別世界。当然ながらテナントの店々の灯りは全部消えていて、緑の非常灯がそこここに淡い光を投げているだけ。俺が毎週のように歩いたお気に入りの通路が、今や、闇の地下迷宮へ通じる洞穴のように、ぱっくりと暗黒の口を開けていた。こりゃすげえ。ダンジョンかよ。この街有数の〈マモ~レ〉マニアを自認するこの俺でも、さすがにこの光景はお初です。もう感無量。ふああああっ。


 そんな俺の感激ひとしおぶりを知ってか知らずか、横でミカは冷たくつぶやいた。


「まるでお化け屋敷ね」


 分かっちょないな~ミカさん! 後でまた改めて、ここの魅力をたっぷりレクチャーしてあげるからねっ。


     *


 さてどうしよう。このまま朝まで自転車屋で過ごすか? それとも? 俺とミカは顔を見合わせた。そして互いにうなずいた。やっぱアトラクションは、楽しまないと損だよね!


 通路を右へ進めば、暗がりのテナント巡りができるけど、監視カメラが心配だな。実際、天井のあちこちに小さな赤いLEDの点が見える。通路には身を隠せるような場所はなさそうだ。暗いからそっと動けば大丈夫かな? だけど暗視カメラかも。


 一方、正面のエスカレーターの裏は、ちょうどうまい具合にカメラの死角になっていた。そこからさらにファッションテナントの間を進むと、すぐ先に、中庭へ通じるガラス張りの大きなドアが見えた。行ってみる? 行こう!


 驚いたことに、自動ドアの横にある小さな手動ドアには、鍵が掛かっていなかった。いいの? こんな不用心で? でもよく考えたら、わざわざ中庭から賊が侵入する可能性はないから、これはこれで合理的なのかも。ありがたいことに、監視カメラも中庭の辺りは手薄のようだった。


 この中庭は、本館と増築された新館の間の屋外スペースを利用した細長い構造で、俺もあんまり馴染みがない。そろりと出てみると、タイル張りのフロアに、ちょっとした芝生や、パステルカラーのパラソルと丸テーブルがしつらえてあって、なるほどミニコンサートや屋台のイベントに活用できる感じです。また一つ、素敵なスポットを発見しちゃいました。


 例の音楽大学の学生さんを呼んできて、ふたりだけのために演奏してもらえたら、どんなにか良かったんだろうけどね。はは。


 外気はまだ肌寒いけど、雪はもうやんでいた。暗がりにぼうっと浮かぶミカは、夜の空を見上げている。息が白い。両側の壁に挟まれて細長く見えている黒い空には、星々がまた、雲の切れ間から輝き始めていた。


     *


 中庭の反対側のドアから、今度は本館に入ってみた。おお! お馴染みのテナントの面々。自分ちの庭みたいに勝手知ったる通路。目をつぶっても行けます。これぞ我が〈マモ~レ〉。これですよこれ。こうでなくっちゃ。でも今日はやっぱり独特! 闇のダンジョンモード。なんとまあエキサイティングっ! だけどミカはあくまでも冷徹に、俺の耳元でささやいた。


「ちょっと山本くん! 浮かれすぎ。踊り出すかと思った。監視カメラ忘れないでよっ」

「はいはいっ」


 正面の通路を進むと、出ました! どどんと。例の吹き抜け催事場――〈ぽかぽか広場〉ですっ。うん! いつものファミリーフレンドリーなアットホームな雰囲気も良いですけれども、今宵のダークサイドなアトモスフィアも、これはまたこれで格別。実に捨てがたい!


 見上げるほどに巨大な円筒型の吹き抜け構造。その外周に、垂直にそびえ立つ幾多の円柱。それらに力強く支えられた空間を取り巻いて、あたかも獰猛なる蛇のごとくにしっかりと巻きついている、エスカレーターの螺旋――そして、それに連なる各階フロアをみごと円環にくり抜いて、年輪のようにかたちづくられた、手すりの織り成す水平線のコントラスト。


 頂上の天窓からおぼろに差す、淡い街灯の光に照らし出されたその姿――畏怖の感覚に満ちたこの姿を、不肖わたくしめが、まるで太古の密林のただなかに打ち捨てられ忘れ去られた異端の巨大神殿のようだ、あるいはまた、永遠に完成することを許されないガウディの教会のようだ、と言うのは、果たして言い過ぎでしょうか?


「・・・言い過ぎよね。ただの吹き抜けだから。それより、あそこどう? インフォメーションデスクの裏。階段の下。うまく隠れて寝られるんじゃない? ちょうどふたりぶん」


 ミカさん! あんた分かっちょない! 後でまた改めてっ(以下略)。


     *


 うん、でも確かに、この巨大神殿のお膝元で眠るっていうのは、なかなか良いアイディアですね。雰囲気満点だし。ダークファンタジーなロマンティシズム、とでも言いましょうか。ミカさんも、ようやく分かってきたようじゃないですか。ここの抗えない魅力が。


 だけど、見つかっちゃう危険性は、自転車屋で寝るのと、ここと、どっちが高いかな? 朝早く起きて、開店前、てか店の人たちが出てくる前にここから出発しちゃえば、どっちでも大丈夫かな。むしろあっちは、自転車のおじさんがすごく朝早い人だとまずいですよね。じゃあこっちで決まり。それに、さすがに自転車屋だとロマンティシズムにも欠けるし。


 ミカにはここで待ってもらって、俺は毛布を取りにそっと自転車屋に戻った。そのとき気づいたんだけど、例の勝手口のすぐ隣に、従業員用の簡素なトイレがあった。これは実に好都合。だって、本館にも新館にも立派なトイレはいっぱいあるけど、真っ暗な静寂の中で、突然灯りがばっと点いて、しゅばばば~って轟音で水が流れたら、いくらなんでも侵入者の存在が白日の下に晒されちゃうだろうし、第一こっちの心臓に悪いです。この小さなトイレならそこまで目立たないし、もし警備員が通りかかっても、修理で残業の自転車おじさんかと思うだろうし、万一バレても勝手口から逃げられそう。たぶんね。まあ希望的観測ですけど。


 ミカが心配するかと思って急いで戻ってきたら、意外とリラックスしているようで、吹き抜けを挟んでインフォメーションとは反対側にある小さなテーブルのところで、何か書いていた。備え付けのボールペンとメモ用紙。おおっとそれって〈お客様のご意見箱〉ですね。なるほど。・・・何か、侵入者の待遇改善のためのご示唆でも? 「階段の下に高級毛布を備えるべし」とか? はは。


 ミカはぱっと顔を上げて、書きかけの紙をくちゃくちゃに丸めた。


「・・・ただの落書き。ふふ」


     *


 けっこう疲れたね。明日は早いから、もう寝よう。


 毛布にくるまったミカの隣で、俺も横になった。床は硬かったけど、子供の遊び場から借りてきたクッションをうまく敷いたので、そんなに痛くはなかった。・・・まあ俺にはね。お嬢さまにはちょっと辛いかも。でもミカは、大丈夫、快適――そう言ってくれた。毛布は充分暖かだったけど、ごめんねミカ、やっぱりチェーンオイルの匂いがした。


 天窓に、また雪のかけらがひらひらと降りて来るのが見える。静かな夜だった。ついさっきまで、俺たちを冷たく拒んでいるかに見えた〈マモ~レ〉が、〈ぽかぽか広場〉が、今夜だけは、外の凍える寒さからふたりを守ってくれているようだった。


 ふたりとも、何となくまだ張りつめていて、なかなか寝つかれなかった。ミカが言った。


「・・・ちょっとまたトイレ」

「そう」


 俺も起き上がろうとすると、


「あ。もう、ひとりで大丈夫。さっきいっしょに行ったから」

「そう?」

「うん。寝てて。山本くん。すぐ来るから」


 ・・・ひとりで行かせちゃったけど、でも、やっぱり心配だよね。しばらくためらった後、結局、俺も起き上がって、自転車屋の方へ歩き出した。


 中庭へのドアを開けようとしたとき、ミカの話し声が聞こえた。


「・・・うん。大丈夫。寒くないよ。全然平気。あったかいところにいるから。ごめんなさい。心配かけちゃって。すごく迷惑かけちゃって、・・・すみません」


 ミカが中庭の隅っこに隠れるように立って、ケータイで話している。俺は反射的にドアの陰に戻った。


「うん。明日の朝には戻ります。飛行機は何時? 同じ時間? ・・・うん。大丈夫。間に合うように戻るから。心配しないで。直接空港に行く」


 それから、急に口調が変わった。大声ではないが、驚くほど鋭い、闇を切り裂くような調子で、


「山本くん? いないよ。私だけ。私ひとり。ずっとひとりだから。今もひとり。彼、関係ないから。知らないよどこにいるかなんて! 空港で別れたから。彼は見送りに来てくれただけだから。関係ないからっ」


 さらに語気を強めて、


「あのねパパ。ちゃんと言ってよ! 警察の人にもちゃんと言っておいて。関係ないって。もし山本くん捕まえたりしたら、・・・私、絶対許さないから。絶対、イタリア行かないから。分かった? 本気だから。そうなったら私行かない。絶対。絶対。いい? 分かった?」


 ミカが――俺をかばおうとしている。ミカが、あれほど尊敬している父、あれほど大好きな父に逆らってまで、俺をかばおうとしているんだ。


 くそ。何がミカを守るだ。守られているのは俺の方だ。俺がしたのは、ただ、ミカを、こんな、のっぴきならない立場に追い詰めただけじゃないか。


 ミカはもう電話を切っていた。放心したように、しばらく、また晴れてきた夜空を見上げていた。


 そのとき、わずかに見える細長い空の切れ端を、すうっと明るく星が流れた。ミカの唇が微かに動いたようだった。俺も、何か願い事をと思ったけど、もう遅かった。やっぱ救いがたいドジ野郎ですね。俺は。


 ドアを開けたミカは、そこにいる俺を見て、一瞬ぎょっと息をのんだが、すぐに微笑んだ。寂しそうな微笑みだった。俺は聞いた。


「大丈夫?」

「うん」


 ミカは、俺が聞いていたことに気づいただろうか? 分からない。ふたりとも、何も言わなかった。


     *


「あの写真、ほんとに展覧会に出すつもりだったの?」


 ミカが横でささやく。


「え?」

「私のあの写真」

「ああ。うん。ええと・・・」

「ほんと言うとね、ちょっと良かったなって思って。山本くんが取り下げてくれたのって」

「あ。そう?」

「うん。だってね、あれ、山本くんにならいいけど、他の人にはちょっと・・・」

「そう?」


 ミカはしばらく黙ったままだった。それから、


「山本くん気づいてた? あの・・・ちょっと透けて見えてたの。ええと・・・下着が。気がつかなかった?」

「・・・えっ? そうなの? まじで? いやっ。全然気がつかなかった」


 ミカは、またしてもしばらく黙っていた。それから、毛布にくるまったまま、いもむしみたいににじり寄ってきて、俺に温かな体をくっつけた。俺は思わずミカの顔を見た。ミカはいたずらっぽい瞳で俺を見つめて言った。


「うそつき」


 そして両目をそっと閉じた。頬が赤い。唇が震えている。


 え? ・・・これって・・・。ま。まさか。まさかあれすか? 伝説の? 女子の待ち受けシチュってゆう? そういうやつ?


 こ。これはっ。この引力すごいですっ。ヤバいですっ。船長! このブラックホールの重力場グラビティフィールドには逆らえません! 強すぎます!


 逆噴射スロットル全開! 11次元経路積分! 量子エネルギーを全投入せよ!


 無理ですっ。許容トルクを超えてしまいます! 船体がもちません! 崩壊してしまいますっ。吸い込まれますっ。


 ・・・これはまずい。本当にまずいです。だってそうだろ? 明日には、ミカは元の世界へ戻っていくんだ。そしたら、必ずいる。あの晩、ふたりっきりで何してたんだって言うやつが。何か、やらしいことしてたんじゃないかって言うやつが。


 そんなやつらは俺が全員ぶん殴る。だけど、ミカに、みんなの前で恥ずかしい思いをさせてはならない。彼女が、そんなことはなんにもなかったと、胸を張ってそう言えるようにさせてあげなければいけない。


 ・・・いや違うな。そうじゃない。本心はそんなことじゃなくて。今ミカとぶちゅしてしまって、そして明日からはもう二度と会えない――そうなったら、俺もう絶対無理。精神崩壊するレベル。てか崩壊する。やっぱそれは避けたいです。だからこれは結局、あくまで俺の自己保身。男はみんなエゴイスト。


 でもこれは避けられない。引力に逆らえない。どんどん俺の顔が、ミカに接近していく。・・・ああっ。・・・これはっ。・・・。


 そのとき、さすがにしびれを切らしたのか、ミカがぱっと目を開いた。ぷっとふくれっ面で横を向いた。そしてぼそっとつぶやいた。


「ヘタレ」


 ああああああっ! ミカさんそれ今言っちゃダメなやつ! そうです俺間違ってました! 言いたいやつらには言わしとけばいいんです! 精神崩壊どんと来いや! 重力場突入しまくり! この俺にもう一度だけチャンスを! リプレイ据え膳! カモ~ンおながいしゃーすっ!


 だが、神は俺を見捨てた。チャンスは二度来なかった。やっぱり疲れていたのだろう、ほどなくミカは、可愛らしい寝息を立て始めた。


     *


 俺はやっぱり緊張していて、あんまり眠れなかった。・・・ちょっと歩いてみましょうかね。ミカを起こさないように、そっと起き上がった。深夜の巨大神殿をちょいと散策。はは。


 暗さに目がすっかり慣れると、ご意見箱のところのゴミ箱の脇に、丸めた紙が転がっているのに気づいた。あ。これって、さっきミカが捨てたやつかな? 何の気なしに拾い上げて、広げて見た。


 う~む。・・・上遠野さん。お宅のお嬢さんは、確かに才色兼備ですけれども、ただ、お絵描きの才能にだけは、ちょっと恵まれなかったみたいですね。まあトレーニング次第で上達するとは思いますが。


 でもまあ、少なくとも、ミカが何を描きたかったのかは、はっきりと分かった。それは、下手だったけど、サイコロの絵――二つのサイコロが抱き合って、接吻している絵だった。


     *


 お? これが噂に聞く、レム睡眠ってやつですかね? 実物を見るのは初めてだな。どれどれ。ミカのまぶたの裏側で、おめめがぴくぴく動いてます。なかなか興味深い現象ですね。これって、夢を見てるってことなのかな?


 俺は、しばらくミカの寝顔から目を離せずにいた。すると、急に唇が動いて、喉の奥から微かな音が漏れた。まぶたの端から涙がひとすじ流れ出た。すぐに両方の目から、次から次へとあふれ出してきて、ミカの両耳を濡らした。


 ミカは夢の中で泣いているのだった。


 ミカの泣きそうな顔を見たことは何度もあったけど、実際に涙を見るのはこれが初めてだった。お嬢さまが、我慢しないで思いっきり泣けるのは、夢の中だけなんだね。その涙が、嬉し涙だったらいいな。その夢が、ハッピーエンドだったらいいな。


 それから、ミカは、小さく俺の名前を呼んだ。下の名前を。


     *


 夜中にまたトイレに行ったとき、勝手口の扉にかつんと外から何かが当たる音がした。びびった。恐る恐るドアを開けてみると、案の定、BB弾が落ちていた。特製のやつで、なんと中をくりぬいて、小さな紙の切れ端が仕込んである。俺がケータイに出ないからですか? すげえな。密書とか。忍者かよ。


〈最初で最後の警告だ。次は弾を替える〉


 抑えに抑えていた怒りが、体の中で遂に決壊して、恐ろしい勢いで膨れ上がってくるのが分かった。不甲斐ない自分への怒り。何もできない自分への怒り。ミカを守れなかった怒り。やつらへの怒り。大人への怒り。社会への怒り。憤怒の発作が吹き上げて、もう本当に立っていられないほどだった。体を激しく折り曲げて、やっとのことで叫び声を上げるのを抑えた。


 来たなスナイパー。命乞いをするつもりはない。レベル4上等。レベル5でも文句はない。結局のところ、お前らのレベル判定は間違いじゃなかった。今の俺は文字どおり、お前らの世界にとっては危険分子そのものだ。


 だけどミカは、自分で帰るって決めたんだ。お前ら俗物には、その尊さは絶対に理解できない。だから俺も決めた。今の俺には、ミカが自分の足で無事に戻るのを見届けることぐらいしかできないけど、お前らには、その邪魔は絶対にさせない。俺が生きてるうちは、お前らなんかにミカは絶対に渡さない。


 大人は言うだろう。バカな子供の一目惚れなんてのは、ただの勘違いだ。ほんとの恋愛ってのは、分別のある大人が、落ち着いて、時間をかけて、お互いをよく知って、いろいろ考えて、そうして育ててゆくものだと。


 だけどそんなことはない。たぶん一生に一度、時が止まった運命の一瞬、そのときに、全てが始まって全てが終わる、そういうことが実際にあるんだ。あったんだ。目を閉じたその顔を見た瞬間に、彼女の高貴な悟りを知り、開いたその瞳を覗き込んだ瞬間に、彼女の底知れぬ孤独を知る。その魂の微かな震えが、時空のエーテルへと伝わり、俺の心の奥底をじかに共鳴させる。そうして、彼女の喜びと悲しみ、怒りと涙、その全てを感じ取り、たまらなく愛おしく思う。彼女のためならどんなことでもできる。それを偽物だと切り捨てる大人を俺は認めない。これが偽物なら、本物はどこにあるんだ。


 もちろん本当は、大人はちゃんと知っている。これこそが本物だということを。そしてそれが、この上なく危険なものだということを。


 大人は怖いんだ。打算も妥協もない本物の恋、その恐るべき破壊力が怖いんだ。目を背けたいんだ。それが、大事な社会の秩序を、世間体を、家庭を、学校を、受験を、将来の計画を、学歴を、年収を、それら全ての空虚さを白日の下に暴き出し、宇宙のかなたまで吹き飛ばしてしまうということを、よく知っているから。


 だからこそ、大人は、是が非でも、それを、パンドラの箱の中に封じ込めようとするんだ。だから禁止する。その一切を校則で禁止する。アシメまで禁止する。


 代わりに大人は、俺たち子供を、小ぎれいな箱庭の中の砂場で遊ばせるんだ。お城を作ったら褒めてくれるだろう。素晴らしい。子供ならではの繊細な感性ですね。大人には真似できない。ゆくゆく将来がとっても楽しみだわ。・・・だけど、その子供が箱庭から外に踏み出すことは、決して許さない。どんな場合でも。決して。決して。


 それなのに、俺たちふたりは、今日、箱庭から踏み出してしまったんだ。全世界を敵に回して。ミカはそれに気づいている。だから帰ってゆく。箱庭の中へ。〈健全〉な社会の秩序へ。


 そして俺は――それを見届けることしかできない。


     *


 警備員が3回通ったけど、寝ている俺たちには気づかなかった。


 遠い外の街灯が天窓を通して届けてくれる、霧のように淡い光。非常灯から落ちてくる緑色の光。そして時おり、夜のしじまを破って走り過ぎる長距離トラックが投げてゆく、ヘッドライトの黄色い光。


 そういう光たちが、この神秘に満ちた〈広場〉の中をゆっくりと漂い、旅をしながら、やがて、俺の傍らに眠るミカの顔へとたどり着き、その女神のような輪郭を、神殿の闇の中にくっきりと浮かび上がらせていく。今はただ、それら全ての光の粒子を、ひとつ残らずこの眼の中に集めて、網膜の奥深くに――何人たりとも奪い去ることのできぬ場所に、永遠に焼き付けたい。そう願った。


 そんな風に、俺は、うとうとしたり、とりとめもなくいろんなことを考えたりしながら、ひと晩じゅう、ミカの寝顔を眺め続けていた。ときどき不意に聞こえる、よく分からない外の物音におびえながら。


**********


 今回の挿入歌その2は、 ClariS 「ひとつだけ」。


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