(3)

 レジ袋を手に、急いで公園へ戻ると、ミカは、ぼんやりとブランコに揺られていた。俺を見るなり飛び上がるように立ち上がり、駆け寄ってきて腕に抱きついた。


「よかったあ! ちょっと遅かったんで、どうしたのかなって思って。大丈夫?」

「ごめん遅くなって。大丈夫。食料無事ゲット」


 腕を巻きつけたまま俺を見上げたミカは、一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに照れ笑い。赤くなって手を離した。


「はは。バカみたい。・・・なんだか、あれ、ちょっと思い出しちゃって。覚えてる? 海の駅行ったとき。お姫さまの伝説」

「・・・ああ。プレートに書いてあったやつ?」

「そう。あれ」


 ええとあれは・・・男が食べ物を探しに行っている間に、お姫さまとはぐれちゃったんだっけ。それでお姫さまは――。俺は言った。声に思わず力がこもった。


「大丈夫。あんな風には絶対ならない。あんな風には、絶対しないから」


 ミカは言った。


「分かってる」


     *


 ベンチに座って遅いランチで空腹を癒すと、だいぶ落ち着いて余裕が出てきた。高級弁当は、もちろんミカとふたりでシェアしました。ざまあ月島。でも、やつが気を利かせていっぱい買ってきてくれたお陰で、これは夕食の分までありますね。さんきゅう月島。とりあえず今晩のところは、コンビニ突撃はせずに済みそうです。


 さてこれからどうする? どっちへ行こうか。俺は悠然とケータイを出した。・・・と、突然、思い当たってぎょっとした。背筋が凍りついた。


「ケータイのGPS。・・・これって逆探知されるのかな?」


 なんかネットでその手の話を読んだ気がする。花染さんが導入を検討していたアプリだとか、迷子の児童探しだとか、なくしたケータイ探しだとか。そうか、それに、警察が犯人の居場所を突き止めるのにも使うんだっけ? よく覚えてないけど。だってその記事読んでたときには、まさか清廉潔白、正直者のこの俺が、追われる身になろうなどとは、ちょっとも予想してませんでしたのでね。人生、先のことは分からんもんですな。はは。


 俺の固まった顔を見て、ミカも不安そうに、


「そうなの? 設定でGPS切れば大丈夫? それとも、電源つけてるだけで見つかっちゃう?」

「・・・正直分かりません・・・」

「じゃケータイ切る?」

「うん」


 マップは便利だけど、この際しょうがない。切りました。まあいいや。どうせ電池ももうあんまりないし。・・・あれ? だけどミカのケータイは?


 そう言えばミカのケータイは鳴らなかった。パパから真っ先に電話があったはずなのに。そう言ったら、ミカはちょっとばつが悪そうに笑った。


「・・・あのね。私、もう切っちゃってたの。今朝。事務所を出るパパと電話したら、それを最後にして、もう日本じゃ使わないって決めたから。・・・だって、ケータイ、オンにしてたら、ちょっと・・・空港から電話したくなっちゃうといけないから。山本くんに。バカみたい。だって、こんな風になるって思わなかったから。はは。ははっ」


 ミカさんそれ反則です。そんなこと言われたら、またぎゅって抱きしめたくなっちゃうでしょ。自制大変なんですから。お願いしますよもう。


     *


 良いお天気です。冷やりとしていた空気も、傾いてきた午後の日差しで暖まって、ほんわか気持ちいい。


 あれこれ悩んでもしょうがないよね。俺たちは、もう逃げるって気分ではなくなってしまって、大きな道の歩道を行ったり、ちょっと家々を巡る横道に入ってみたり、田んぼのあぜ道を歩いたり。お散歩デート楽しいです。


 いろんな話をした。他愛ない話とか。そうでもない話とか。いろいろ。


 俺は、そうね・・・カメラの話をした。ミカが感心して聞いてくれた。あと姉貴の話とか。ミカが、きょうだいがいるってどんな感じ? って聞くから。


 ミカは、ヨーロッパの話をした。あと、亡くなったお母さんの話をした。


 ミカが花の名前を尋ねる。俺がすいません分かんないと答える。


 ときどき、遠くに、田んぼに囲まれてぽつんと点在する小さな林が見えたりした。林と呼ぶのもためらわれる、ぱやぱやと生えた木立。田んぼの海に浮かぶ小島みたい。


 行ってみる? うん、行こう!


 あぜ道をてくてく、そばまで行ってみると、木々は見上げるほどにすらりと高い。その内側には、隠れ家のように、外からすっぽり隠された家があったり、そうかと思えば林だけで中には何もなかったりした。


 ミカが言う。ここに空き家があればいいのに。


 そうだね。


 でも空き家はなかった。俺たちは別にがっかりしなかった。分かってたから。


 やっぱりこの辺には、無人島なんてないんだよね。


     *


 まあ郊外デートって言っても、あまりにも森の中へ分け入っちゃうのもあれですよね。心細くなっちゃうし。この状況でクマさんとか出会いたくないし。向こうも迷惑だろうし。たぶんまだ寝てるだろうし。はは。


 また広い道路に出た。欄干に沿った狭い歩道を歩いていく。夕日がまぶしいから、西の方角だな。ふたりとも、疲れて口数が少なくなっていた。そのとき、ミカが突然言った。


「あ。あれって・・・」


 見ると欄干の下は、小さな用水路になっていた。田んぼの中を、細々と、しかしまっすぐに抜けて、地平線まで南へ続いている。水辺には、豊かに草が生い茂っていた。


 ミカが差す方向を見ると、夕焼けの光を受けて、遠くに、用水路に架かった粗末なコンクリの小橋が見えた。確かに、何となく見覚えがあるような・・・。


「ああ!」


 あれはまさしく、蛍の場所。びっくり。こりゃもう、さながら感傷ツアーですね。


 この感覚。分かります? 歩いていたら、突然気づく。デジャブ。前に来たことがある。だけど錯覚じゃなくて、以前来たときは新雪さんの車だったし、たぶん違う道を通って行ったから、今日俺たちが歩いたここまでの道――途中の記憶はないわけです。なのに、知っている風景が、唐突に目の前に展開している。ワープして異次元に踏み込んだみたい。俺たちは、ふたりともあっけにとられた感じで、しばらくその橋の辺りを眺めていた。


 そう言えば・・・あの二人は、どうなったのかな? 新雪さんと辻。ちゃんと駅で会えたんだろうか。その後何も聞いてないけど。ミカは知ってるのかな?


 でも聞くのはやめた。少し怖かったから。だって、あのときは他人事みたいに二人に同情してたけど、今は、・・・。


「あそこまで行ってみる?」


 でも用水路沿いに道はなかった。回り道しなきゃいけない。マップなしでは難しそうだった。それに、たとえあの場所にまた行けたとしても、去年のあの日に帰れるわけではないことを、ふたりとも知っていた。・・・ですよね?


 あれ? 今、俺、誰に向かって話してるの? 神様かな?


 だったら神様。今回は、どうも俺の見通しが甘かったようです。俺たちの道は、ずうっと遥か南の島まで続いているんじゃなくて、どうやらこの辺りで終わっちゃってるみたいです。


 なので、そろそろ潮時かな。なんか思ったよりずっと短くて、超恥ずかしい。あっという間だった。ほんとは意地でも一週間とか、一か月とか、かっこよく逃げ続けたかったのに。アニメとか映画みたいに。


 でもこれはアニメじゃないから。はは。


 俺たちは、欄干にもたれて用水路の先を眺めていた。沈んでゆく夕日の鮮やかな橙色が薄れて、空が次第に淡い青紫色を帯びてきた。すぐに暗くなる。


 ミカがぽそっとつぶやいた。


「・・・元気にしてるかなあ? あのときの。タヌキの親子」


 ふたりとも笑った。


 でも俺は、全然別のことを思い出していた。・・・地面に転がった俺の上に覆いかぶさってきた、ミカの体の感触。


 男って、結局、どこまでもスケベです。


     *


 陽が落ちてからは、何となく街の方へ戻る感じで、北の方角へ、広い道を選んでとぼとぼと歩き始めていた。ミカもたぶん分かっていて、何も聞かなかった。・・・田んぼ。民家。突き当ったら今度は東へ。また田んぼ。ずうっと田んぼ。そんな感じ。


 すっかり暗くなって田んぼは真っ暗だけど、その向こう、地平線上に家々の灯りが点々と見えて、すごくきれいだった。ほんと驚く。昼間はどうってことない家たちが、黄色い灯りになったとたん、魔法みたいに、何とも言えない美しさに輝き出すんだよね。


 でも、その中で暮らす人々に思いを馳せるとか、温もりとか、そこへ帰りたいとか、不思議とそんなことはまったく感じなくて、なんだか全部の灯りが、遠い星のように見えた。空に次第に増えてゆく星と、地上に煌々と光る星。俺たちはただ、その星々が浮かぶ大宇宙に、ふたりだけで漂っている。そんな感じがした。


     *


 やっぱりさすがに真っ暗になっちゃうと、田んぼの道は心細い。でも北へ向かううちに、だんだん家が増えていって、道はじきに、住宅や会社が立ち並ぶ市街地へ戻っていった。


 おお。コンビニもあった。よかった! また文明の地へと帰ってまいりました。さっそくですが、おトイレ拝借。ひとりずつ、顔を見られないように、素早くささっと。何も買わなくてごめんなさいね。次に来たときはいっぱい買いますから。


 一日じゅう歩きづめで、けっこう疲れた。ミカももうへとへとじゃないかな。我慢して何も言わないけど。どこか公園を見つけて、晩ご飯にしよう。でもマップがないと、見つけるのも一苦労ですね。


 でも・・・あれれ? 方角間違えた? 道沿いに続いていた住宅地が急に途切れて、不意にまた、行く手に田んぼが広がった。


 う~ん。さすがに田んぼ飽きてきた。それに田んぼに座って食べるのもあれだし。公園なさそうだし。どうしようか? 引き返す?


 田んぼの向こうを見渡すと、例によって民家の灯りがぽつぽつ見える。だけど――あれは何? 左の方角、田んぼのずうっと向こう側に、なんか、横にすごーくでかい建物が。夜の田園には場違いなほどに、たくさんの灯りが煌々と輝いている。・・・あれって・・・。


 〈マモ~レ〉だった。


     *


 うわ。こんなとこに来ていたとは! 空港からぐる~りと回ってはるばる歩いて来たら、こんな位置関係になっていたんですか。この街に暮らして幾年月。知らんかったあ。


「・・・きれい・・・」


 ミカがつぶやいた。激しく同意。昼間はただの箱ですけどね。今は、おとぎの城に見えますねっ。


 うむ! これはいいかも。あれだけ広い建物なら、隠れ場所には事欠かないのでは? 目立たぬようにふたりでそっと入って、どこか片隅に隠れる。そうすれば、閉店から開店までの間、とりあえず一晩過ごせる。俺、自慢じゃないけど、あそこの内部構造得意です。どうよこれ?


 よっしゃあ! 元気出てきました! 俺たちは、勇んで〈マモ~レ〉に向かった。閉店時刻にはまだ少し間がある。田んぼを越え、だだっ広い駐車場をぐるりと回りこんで、正面の出入り口に近づいていったそのとき――。


「ヤバいっ」


 俺は慌ててミカの腕を引き、建物の陰に身を隠した。


 パトカーが二台停まっていた。


     *


 閉館を告げる音楽が流れている。


 施錠途中の警備員が、パトカーの前で警官と立ち話をしていた。やつらの隙を突いて自動ドアから滑り込むのは無理な相談だ。それに、透明なドアの内側に見えている鉛色のシャッターも、もう完全に降りていた。


 他の出入り口は? ――いや、もう全部閉まっているだろう。閉館までいたことがあるから知っているが、ぎりぎりに出る客のために、この正面口は最後に閉めることになっているらしかった。


 やむを得ない。情けないけど退却です。俺たちは見つからないよう用心しいしい、元来た道を戻って行った。どっと疲れが出た。


     *


 隣でミカが震えている。


 ちきしょう。なんで三月の末に雪なんだよ。大自然でさえ、俺をきっぱりと裏切ってくれる。


 俺たちは、小さな公園のベンチに座っている。〈マモ~レ〉駐車場の隣にある団地のためのものらしい。さっき、お弁当の残りをふたりで食べていたとき、夜の空気が急に冷えてきて、まさかの雪が降り出した。慌てて上着を脱いで、ミカをくるんだんだけど・・・。


 大好きだったこの街。誇りだったこの街。俺がその一部だった、この街。今はもう、その街のどこにも居場所を見つけることができなくなって、大切な女の子を守ることもできない。あんなに好きだった〈マモ~レ〉までもが、今は、俺たちを冷たく拒否している。


 もうズタボロだよ。


 これまでか? これで終わり? リタイアなのか? ほんと泣きたかったけど、この状況でミカに涙は見せられない。俺は必死で我慢しました。そして考えた。どうする? 誰かに助けてもらう?


 月島はもう無理だろ。遠すぎるし。花染さん? 新雪さん? 誰かクラスメート? ダメだ。親しい人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。


 それなら、・・・いっそ、赤の他人はどうだ? 全然知らない人。そうだな。ええと。例えば――〈カクヨム〉読者とか?


 この話のフォロワーはたしか34人。俺のフォロワーは3人。その中で、この街のこの近くに住んでいて、こんな時間に〈カクヨム〉を見て、今夜このときに俺たちをかくまってくれるような、そんな都合の良い人間がいる確率はゼロだ。


 だけどさ、ひょっとすると、万に一つの確率で、例えば、登山とかサバゲーの達人なんかがいるかも。そしたら、こんな状況で、どうやったら一晩寒さをしのげるか、とか、――その手のノウハウを教えてくれるかもしれない。まあありそうにないけど。


 逆探知されちゃうかな? もうヤケだ。藁にもすがる。俺は、思い切ってケータイの電源を入れ、〈カクヨム〉にちまちまと泣き言を書き込んだ。ミカは横から、「何してるの? こんなときに」ってなジト目をくれました。


 バッテリーは6%。うわ。こんなことなら充電器持ってくるんだった。コンセントないけど。はは。


 切れるまで、もう少しだけ待つ。それでリタイアだな。俺だけなら凍死しても全然オッケーだけど、ミカをこれ以上震えさせるわけにはいかない。近くのコンビニか、開いてるドラッグストアに出頭して、それで打ち止め。ゲームオーバー。はは。・・・「凶悪少女誘拐犯、寒さに耐え切れず自首」。おバカニュースで全国出ちゃう。超絶情けないけど。


 5%。・・・4%。・・・。


 そのときケータイが振動した。


     *


 ベルのアイコンに赤が灯っている。読者のコメントが来てるっ! ありがたや! 助け船よっしゃあ! ――で?


〈こらこら。作者が伏線忘れちゃだめじゃないですか (^_^)〉


 ・・・だめだこりゃ。完全にフィクションだと思われてる。


〈第1話の(5)でしょ? あそこのと〉


 ケータイがシャットダウンした。


 伏線? どういうこと? 第1話? ・・・俺、あのあたりでどんなこと書いたんだっけ? 俺は頭を抱えた。


 今この瞬間に、これを読んで、このコメントを打ち込んでくれたのは、会ったこともなければこれから会うこともない誰か――ここから遥か彼方の、無数に張り巡らされたサイバースペースの結び目ノードのどこかにいる誰かだ。その見知らぬ人は、いったい俺たちに、何を教えてくれようとしたのだろう?


 バカな俺がそれに思い当たるまでに、笑っちゃうくらい長い時間が掛かった。


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