第13話:木《こ》の芽時《めどき》(最終回)
(1)
今回のOPは ClariS 「グラスプ」(スリリング!)。
**********
時刻はとうに過ぎている。どうせ間に合わない。でもいちおうケータイ出して・・・タクシーは出払っていた。しょうがないな。チャリの鍵を差し込んだ瞬間に、遠い記憶――いつか、ミカが鍵を返してくれたときの手のひらの感触が、鮮やかによみがえった。
そういうことってあるよね? 間に合わないって分かってるのに全力で走る。典型的なバカ。俺はサイクリングロードをひた走った。空港まではそうとう遠い。普通やらんぞこんなこと。だけど知るか。これは俺とミカの道だ。今日この道を走らなくて、いつ走るんだ。どこ走るんだ。
俺は走った。陽光の中を。まだ冷たい風の中を。
*
この騒ぎで空港はがらがらかと思っていたけど、意外とそこそこ混んでいた。と言っても、ふだんどれだけ人がいるのかも知らないんだけどね。たぶん来るの初めてだから。最初間違えて、国内線の方に行っちゃったくらいです。
二階の出発ロビーにエスカレーターで昇って行ったときには、さすがにもういないだろうと覚悟していた。だけど、けっこうな数の人々が座って待っている。一日一便のローマ直行便は、3時間遅れでまだ搭乗手続きも始まっていなかった。
いるだろうか? それとももう中に入っちゃってるかな? ・・・いた。
ミカはぽつんと、待合スペースの端の椅子に、背すじをぴんと伸ばして腰かけていた。後ろから声をかけると、驚いて振り返った。青ざめていた顔に、さっと朱が差した。何秒間か、絶句したまま俺の顔を見つめていた。それからささやくように言った。
「山本くん。・・・来てくれたんだ」
「うん。ごめん。来ないつもりだったけど。・・・でも、ちょっと。えっと。ニュースとか見たりして。それで」
「そう・・・」
ミカもあのニュースを見ただろうか? 分からない。ロビーのテレビはついているけど音が消してあった。ミカはそれ以上何も聞かなかった。
ミカに言うべきだろうか? ミカパパに言うべきだろうか? 危ないから飛行機に乗るなって。行くのやめろって。でも未確認情報だし。関係ない飛行機だし。こんなギリギリだし。
「パパは?」
「あそこ」
ミカは身振りでロビーの先の壁の隅っこをさした。上遠野氏が、立ったまま、折り畳んだ図面と首っ引きで、熱心に話し込んでいる。
「まだ東京とやり取り。ほんとギリギリまで」
ミカが少し力なく笑った。
もちろん俺は、ここのところ四六時中、暇さえあればパンデミックのニュースを見ていた。いつも東京より先にイタリアのことをチェックしていた。ミラノの医療崩壊の記事を読んで、その夜は一睡もできなかった。どうかミカパパが渡航を中止してくれますようにって、そう祈り続けた。
でも、事ここに至って、そんな淡い期待は吹っ飛んでいた。どう見てもミカパパは行く気だ。たぶんさんざん調べ倒して、万全の構えで、絶対大丈夫って分かってるんだろう。だったら安心だ。だったら気をもむ必要はない。だったら、俺なんかが変なことを口走って、ミカを心配させてはいけない。ローマまで長いんだから、飛行機の中で不安がらせてはならない。何か言わなければならない。ミカを安心させるような何かを。俺はただバカみたいに話し続けた。
「3時間とか! ずいぶん遅れてるね。朝からずっと待ってたの?」
「そう。でもこんなのよくあるから。空港で何時間も待つとか」
「そうなんだ。はは。知らんかった。俺、自慢じゃないけど飛行機乗ったことないから」
「そうなの? はは。でもヨーロッパだと、電車もよく遅れるよ。平気で何時間も。けっこう普通」
「へー。・・・でもさ。ミカさんは、向こうの生活にも慣れてるから、その点安心だよね。初めてじゃないから。慣れてるから。・・・あ。それにさ。こないだテレビでやってたけど、イタリアもさ、南の方は全然大丈夫だって。ミラノのこと騒いでるけど、今回、政府の対応がすごく早かったんだって。移動制限とかすごいしてて、すごく厳しくやってるから、封じ込め成功してるって。中部とか、南部とか、全然大丈夫だって。住んでる日本人がインタビューで言ってた」
ミカはうんうんとうなずきながら、でも、俺の言葉を聞いていない。俺の肩越しに、どこか遠いところを見つめている。何かを見つめている。――今日を限りに、永遠に失われてしまう何かを。
俺は・・・俺は何を見ている? 俺も何かを見ている。いや! そうじゃない。何も見てない。見るな! そんなものを見るな。見るんじゃない!
――飛行機の中で、隣の乗客が咳込んでいる。ミカが不安げに窓の外を見つめている。雲の切れ間に、鉛色の海が光っている。
見るな!
――病室は患者であふれている。さながら野戦病院のようだ。廊下に縦に並んだ簡易ベッドの一つに、青い顔のミカが寝かされている。ときおり咳込んでいる。
――看護婦が来た。具合はどう? ミカが言う。私は大丈夫。向かいの人を見てあげて。ひどく咳して苦しそうだから。
思い過ごしだ! そんなことは絶対に起こらない。ミカは大丈夫だ。若者は大丈夫だ。万一かかっても無症状だ。軽症だ。風邪と同じだ。インフルエンザと同じだ。交通事故の数の方がよっぽど多い。騒ぎすぎなんだよ!
「・・・あ。まあ分かってると思うけど、飛行機の中でマスクすんの忘れんなよ。いちおう。念のため。・・・それとさ。あのさ。向こう着いたら、ケータイとかってすぐつながるの? シムカードとか、空港で買って差し替えるの?」
――看護婦が通る。ミカは助けを呼ぼうとしている。だけど手がもう上がらない。風を切るような息の音がする。看護婦は気づかずに通り過ぎる。
――ミカは苦痛に顔を歪めて横を向く。咳がひどい。
たまにいるだろ? 騒ぎ立てるやつ。
「・・・空港でシムカード買う前にさ、ワイファイでつないだりする? あ、でもさ、前にネットで見たんだけどさ、フリーワイファイってあるじゃん? 空港とかそういう場所で、出てくるやつ。ああいうのって、便利だけど危険なんだって。うっかり変なのにつなぐとハッキングされるって。パスワとか。だから気をつけないと――」
――ミカは息ができない。
――ミカは。息。が。でき。ない。
「・・・ローマ便にご搭乗予定のお客さまにお知らせします。大変長らくお待たせいたしました。まもなく搭乗手続きを開始いたします。ご出発のお客さまは、時間に余裕をもって、手荷物検査と出国手続きをお済ませいただき、出発ゲートへとお進みください。改めて、出発が遅れ、ご迷惑をお掛けいたしましたことを、深くお詫び申し上げます。・・・」
大人はいつだって正しい。大人は全部ちゃんと考えている。大人に逆らっちゃいけない。大人の言うことを聞いていればそれでいいんだよ。それに俺は今、見送りに来てるんだろ? なら、暗くなっちゃダメじゃないか。ケチをつけちゃいけない。そうだよ! あくまでも明るく。晴れやかに、ミカの旅立ちを見送るんだ!
――ミカの手が、ベッドの端から、だらんと――。
バカバカしい! ほんっとっバカバカしいです。なんなの俺。バイオホラーかよ。自作の妄想にびびりすぎでしょ。笑っちゃうぞ。笑っちゃうよね? 笑っちゃいます。俺は言った。
「行くな」
それが自分の声とは信じられなかった。聞いたこともないような、地獄の底から湧き上がってきたような、真っ黒な、ドスの効いた声だった。俺は内心震え上がった。声が続けて言った。
「逃げるぞ」
・・・な。なに寝言言ってんの俺? バカなの? バカかよ?
頼むよミカ。言ってくれ。いつもみたいに笑い飛ばしてくれ。なにそれ? バカじゃないの? 春先でおかしくなったんじゃないの? そうすれば、俺は、頭をかきかき、うちに帰れる。笑いながら。泣きながら。
だけどミカは笑わなかった。大きな目をはっと見開いて、驚いた顔で、じっと俺を見つめた。頬から血の気が引いたかと思うと、すぐまたぱあっと赤くなった。一瞬、迷いの色がその瞳に浮かんだと思う。それから、彼女は、微かに――しかしはっきりと、うなずいた。
アナウンスの後で、待ちくたびれていた人々がようやく立ち上がって、ぞろぞろと動き出していた。上遠野氏は離れた場所で、まだ夢中で話を続けている。
ミカがそっと立ち上がった。俺たちは並んで、さり気なく、目立たないように、じりじりと、ゆっくりエスカレーターの方へ歩き始めた。いつ何どき、後ろから声が掛かるかとびくびくしていた。最初は聞こえないふりをしよう。二回目はちょっと振り向いて、こう言う。ちょっとジュース買ってきますね。すぐ戻ります。・・・でも自販機は外じゃなくて中にあるんだけど。
声は聞こえなかった。エスカレーターが異常に遅い。こんなにのろかったっけ?
一階の自動ドアが背後で閉まった瞬間、俺の横で、ふううっと大きく息をはく音が聞こえた。ミカが俺の手をぎゅっと握りしめた。その手は緊張で冷たく震えていた。
俺は横を見た。柔らかな午後の日差しを受けたミカの顔には、見たこともないような不思議な表情が浮かんでいた。たぶん俺の顔も同じだったろう。
それは、なんというか――限りなく高ぶっていて、限りなくおびえていて、そして――限りなく自由。専門家なら言うだろう。この表情は分類不能ですね。でも解説は要りません。誰でも知っています。誰にでも覚えがあります。これこそ、人類が、長い長い進化の末にようやくたどり着いた、純粋な、究極の表情――〈恋〉の表情だからです、と。
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